ポケ迷宮。
ネッツの端っこにあるヴィオののんびり日記的な旧時代的個人ブログ。大体気に入ったゲームについて語ってます。
この世界を生き抜くための手段(2/2)
「へ、もう少しお相手さんのいる現場が良かったぜ。面白い奴がいたから良いがな」
道中子供じみた文句をフィンリーが言うのを、他の三人はいい加減うんざりしながらもアジトの最低限の物色を終えた。フィンリーのお楽しみとやらに付き合っていたら夜が明けてしまう。それに本格的に中を調べるのと死体の処理は明朝からドニと他の“蛇”のメンバーで進めることになっている。ソローネ達がやることは、もう無かった。
「じゃあな、良い夢が見れるぜ」
と真っ先にリーダーのフィンリーがいなくなる。彼は現場責任として“蛇”の巣に報告する義務がある。少年達の、ではなく誰かお相手が置いていったのだろう高級そうなコートをかっぱらって返り血を隠しながら、闇へと消えていく。
「俺はガキの怨み節を背負った熊に襲われる夢でも見そうだぜ、ったく」
「同感だ」
ピルロの悪態に、ドニが肩を落として同意する。
それはそれとして、と一刻も早く既に去った男を話題から追い出す。
「ドニ、今日はありがとな。お前と組めてラッキーだったぜ」
ピルロがドニの細い肩を叩く。人畜無害そうな顔をしているドニはこの中でも一番の策士だ。本人達に殺しのスキルがあるわけでもない、たかが数人のそのアジトの殲滅なんかが金剛クラスの仕事だったのは、もちろん“黒蛇”の溜め込んだ金銀財宝からスキャンダラスな情報の居場所を知っているという理由で優先順位の高さは何物にも勝るだろうが、あの葉を常用しているせいで安易にテリトリーに侵入出来ないことが、攻略難易の壁を高めていたからだ。それを打ち破る術を実行したのがドニだ。
ソローネも今回のドニの働きは称えられるべきだと思うが、ドニは人の好い笑顔を浮かべて、話題になることから逃げる。
「そんなことねえよ。俺が他の奴らの相手してる間に後味悪くしちまったみたいだし」
「仕事の味に良いも悪いもねえ、赤い血が鉄臭いタップダンスを踊ってるだけだ。それに……ま、今回はほんの少し歯車の噛み合わせが悪かっただけさ」
「……ありがとな、ピルロ」
ドニが筋書きを作り上げた時点では、今回の仕事のメンバーは一人だけだったのだから仕方が無い、誰も悪いわけではないと暗にピルロは言い、ドニも言い分を察する。
「ともかくピルロとソローネが一緒で俺も助かった。どうも掃除は俺に向いてない」
そういうドニも実際手捌きもそこまで悪くは無い。でないとこんな歳まで組織では生き残れない。ドニは相対的にピルロとソローネの方が腕が立つ、と言っているのだろう。
「掃除の腕が全てじゃねえさ。さっきも言ったろ、お前と組めて良かったってな」
「そうだよ。自分のことはちゃんと評価しなきゃ」
二人がかりで称賛してようやくドニのそばかすの浮かんだ顔が少しはにかむ。気の知れた仲のドニに、ピルロが一言を添えた。
「もちろん、これで驕られたら困るがな」
「フフ、そうだね」
「こらこら、ぬか喜びさせるのはよしてくれよ、素直に凹むだろ」
眉を下げて笑う様は、街中を歩いていても特段目にかけない純朴な雰囲気で、右腕の蛇のタトゥーと首についた黒いチョーカーがなければ平凡に生きていく道を歩んでいたのかな、と思わされた。
この葉を渡さなきゃいけない奴がいるからと、ドニの幅広い人脈の何処に欲しがる悪趣味な奴がいるのやら、散々な目に遭わされた物を持って言うドニと別れ、ピルロと二人で場末の路地を歩き出した。
「ドニはもうちょい自己評価あげてほしいんだがな」
不満げにこぼしながらも、彼は懐から煙草を取り出して火をつけている。手持ち無沙汰になるとすぐにピルロは無聊をもて余すように何かをしていた。大抵は煙草だが、ソローネから見たらピルロは少し生き急いでいるようで時々不安になる。こうして横に並んで歩いているはずなのに、気付けば斜め前を、手が届かないくらいずっと前を歩き進んで、人生の崖を転落していくんじゃないかと考えてしまう。
「実際はしてるんだと思うけどね、それを表に出さないのがドニの処世術かも」
「はー、それ言われると別の意味でそら恐ろしくなるが……」青年は会話の速度を一度緩めて、煙草の煙を吐き出す。「あいつはリアルの自分と意識を別に切り離してる。だから血に飢えたり恐怖を覚えたりしない、自分事じゃないからな。こんな世界を生きる上で一番合理的かもしれねえ」
一仕事を終えて気怠げに語るピルロは完全に弛緩していた。「そうかもね」隣を歩くソローネも正直あまり考え事はしたくなかった。
気が散漫なまま薄墨色の路地を進んでいく。二人とも押し黙ったままガス灯の灯りの届かない薄闇を右に曲がり、左に曲がり、頭痛も相俟って蹌踉とした足取りになりかける。
「……ソローネはどうなんだ?」
ピルロが突然歩調を落とした。数歩先で、ソローネも足を止める。
纏っていた懈怠な空気が薄れ、肌の表面がひりつくような緊迫した雰囲気が混じるのを感じた。
「なあ、ソローネ。やっぱり今日のお前は感傷的過ぎる。リアルのお前がナイフを握ってた間、心は何処にいた?」詰問するような鋭い口調。しかし次にはトーンを下げて柔らかくなっていた。「俺には言えないか、お前の悩みは」
窮屈そうな顔で、きっと言っているのだろう。口に咥えた煙草の紫煙が、闇夜に不可解な模様を描いて消えていくのが想像できた。
「……自分でも、わかんなくて」
意を決して出した声は何年かぶりに喋ったように掠れていた。心配してくれているピルロに対して振り返ることがどうしてもできない。
「私達がしようとしたこと、正しかったのかな」
そのことか、と小さく息を吐いたのが聞こえた。
「そいつは俺らが決めることじゃない。……もう動かなくなった奴らが決めることだ」淡然と、彼は続ける。「だが例え何も知らないで俺達に殺されていようが、ドニの計画の通りあの可愛い金髪碧眼の少女少年二人が仲間に八つ裂きにされていようが、結果は同じだ。俺達の今日の仕事は成功した、それだけだ」
あの場で真っ先に怒りを露わにしていた青年は、もう遠い昔の話をしているかのように飄然と語る。
「確かにな、あの熊野郎の独断のせいで気分は良くねえさ。俺もああいう手合いは好かない」
背後の気配が近付き、ソローネを追い越していく。
「今夜は失敗しなかったから良かったとだけ思っておけ。失敗したら待っているのは蛇のようにしなる鞭だが、成功したら待っているのは金とクソ親共からの腐った名誉だ。まあ名誉はともかく……金が手元に残るのはそう悪いことじゃない。有難いことにこの報酬の仕組みは“蛇”には存在するし、多少の羽振りも良いと来た」
こちらにおもむろに振り返った幼さの残る顔を、頭上の鈍く乏しい月明りがうっすらと照らしている。透けるような亜麻色の髪が月光を反射し、毛先付近には首を縛る黒いチョーカーが浮いて見えた。ピルロは煙草の持っていない左手でチョーカーを指し示す。
「俺達には首輪がある。鎖は二人の親に繋がってる。これがある限り、俺達は“蛇”なんだ。この街の裏の、少なくとも下の上にはいられるんだぜ」
「それは……どういう意味で言ってるの」
自分でもぞっとするほど出し抜けの冷たい声音に、ピルロが絶句する。
このニューデルスタにおいて、富豪達との間に毛細血管のように張り巡らされた閥は、間違いなく“黒蛇盗賊団”が一番の規模を誇っている。彼の言った下の上に位置している立場が、間違っているはずがない。なんでこんなことを言ったのか自分でも解らない。
「……ごめん」
気まずい空気を払いのけるように、謝罪が口を継いで出ていた。けれど、そうして実際に間違いじゃないと思っていたはずのことを否定すると、喉元に異物が刺さったような気持ち悪さが残った。
落ち着かない様子で目を逸らしていたピルロは、ソローネの言葉を聞いて軽く首を振る。
「構わねえさ。人間常に陽気であれって方が無理難題なこった。だがソローネ、どうしようもねえことは、一人で抱えるな」
肩を竦めて普段の調子で明るく応えてくれる。それが今のソローネには辛かった。これ以上話していると分別のつかないまま、何か良からぬことを口走ってしまいそうだった。
足早にピルロの側を通り抜ける。横に並んだ一瞬だけ足を止め、
「……ごめん、今日は」
声にならない嘆息が聞こえた。何か言いたげに頭を掻いてどう見ても納得してなさそうな態度だったが、「ああ。明日、十七時にロビーでな。忘れんなよ、ソローネ」と言い残して別の方向へと歩いていく。“黒蛇”が用いているヤサはいくつかあり、ソローネとピルロの部屋は別の建物に割り振られている。男女で、というよりかは蛇の双頭を担う“マザー”派か“ファーザー”派か、の意味合いの方が圧倒的に強い。実際、ソローネの隣の部屋は二つ上と五つ下の男の部屋だ。
暗い夜道を一人で歩く。表通りはガス灯が点火していて今の時間でも明るいが、こんな裏路地に灯りなんてあるはずもなく、ぼんやりとした視界の中を歩いていく。
いくら夜の顔も持つニューデルスタであっても、深更にもなると静かだった。建物の隙間を縫った風が地面に落ちているゴミを巻き上げ、或いは転がしていく。舗装された道の上はゴミ箱と地続きだと言わんばかりに汚かった。
色んな人種も感情もごった煮のこの街を歩く自分は、正に風に煽られている駄物のようだった。生きるために道を指し示してくれた自分の神様の言う通りに、感情を捨てて誰かの大切な物を奪い、痛みを捨てて誰かの命を奪い、手元に残るものは一体なんなのか。
未来がなく、希望がなく、夢がなく。
自分が何処を歩いていて、何処に行きたいのか。今のソローネには全く解らなかった。
本当の神様がもしいるのなら迷える羊に道を照らしてくれるのだろうか、という考えはすぐに捨てた。夕方、あの建物の屋上で昔馴染みが言ったように、本当にそんな何かがいるのだとしたら、“黒蛇”なんて薄汚いものはとっくに消え去っているだろうし、今も子供達がそういう教育を受けることもないだろう。そうでない今のこの世界には神様なんていないか、身贔屓なのか、蛇で喉笛を噛みちぎれるくらいに弱っちいのか。
左手の甲を見下ろすと、真っ黒な楕円形のタトゥーから小馬鹿にするように舌が伸びている。
腕の蛇が、笑っている。
明日を見るなと、笑っている――
『明日、十七時にロビーでな』
さっき交わした会話が脳内で稲光する。
声変わりしてだいぶ低くなったけど、今になってもあどけなさが残る落ち着いた声。
煙草のにおいがする。鼻の奥をつく、彼の習癖になっている煙草のにおいだ。
『忘れんなよ、ソローネ』
暗澹と、黒い幕を下ろされた様に見えなくなっていた先の景色が、数歩先だけではあるけど開けたような気がした。
一方的に繰り返す日々の中であっても、一緒に未来を語ってくれる奴がいる。躊躇も無く、損得も無く、横に立ってくれる存在に今までどれだけ救われたことか。彼のおかげで五本の指があり、日に焼けていない白い足があり、こんな自分でもまだ人であることを自覚できる。
『守るものでも作ったら』
あの場で少年が言った言葉が反芻する。彼がどういう意図で言ったのかは判らない。棘のある嫌味だったのか、度を超えたお節介だったのか、でもその言葉は不思議とソローネの奥底に瑕のように彫られて残っていた。
(守るもの……)
他人から物を奪い、命を奪い続けてきた自分の手元に抱えるものなんて、そんなもの、あるわけがない。
答えは、未だ見つかりそうにない。
だけど、守りたいものは何かはわからないけれど、手放したくない、と思えるものは確かにあった。
明日会ったら、言いそびれてしまった礼を言おう。
今は、それで十分なのかもしれない。
もう少し時間が経てば東の空から太陽が上り始める。この街の濁りきった空気が、とても爽やかとは程遠い朝霧を作り出す頃だろう。
例え射界の外にいたとしても、その光景は眺めることが出来る。
ソローネは数刻後に見えるであろう景色を、心の中に思い浮かべた。
+++++
少し考えて、結局いつもと変わらない地味めの格好にした。普段から自分なりに身だしなみは整えているし、それに選り好みする程手元に材料が無い事に気付いてしまった。色めきだった行為をするのも頭の中のピースが嵌まらない感じがして気持ちが悪い。からかいのネタにもされるだろうし。相手にもそうだが、見知った人物に出会ってしまった場合特に。
なんだか言い逃れっぽいな、とあれやこれやと思考を巡らせてから自分に呆れてしまった。
昨日仕事で入った建物と比したところで大した違いもないような狭く簡素な部屋。違う所は、地下にあるので小窓すらなく採光が望めないところ。流石に換気口はあるので、煙草が吸えるだけマシか。また寝床、衣服、後は街で買った本や新聞はきちんと自分で整頓しているところも異なる点と言えるだろう。
部屋の隅に置かれた、自分が来る前からずっと置かれている木製の古びたテーブルにはお洒落なランタンが置かれ、ニューデルスタの店先に最近売られるようになった雑誌とやらが開きっぱなしだった。そこに書かれているのはモントレーン酒場という裏街の小さな酒場で、グランドピアノなる楽器を弾く演奏家とやらが集まってきて、立地にも関わらずちょっぴり上品な客も来たりしている所である旨が書いてある。こういう大衆向けの物に裏街を取り上げられることなんて殆ど無いので、印象的に記憶に残っていたのだ。
……今夜のことが、多少は気晴らしになってくれればいい。
結局最後に使い古した煤色のコートを羽織り、雑誌を閉じながらランタンの火を消して、ピルロは自室を出る。飾り気という言葉に縁も無い武骨な階段を上り外に出ると、夕闇も段々と濃くなり青灰色の空が徐々に一面を染め上げていた。呑気に浮かんだ雲は判然としない形と色で浮かび、建物がせせこましく林立する鬱蒼としたこの都会に伸びた影を描いていた。
どうやら酒場が盛況なのは酒が美味いせいではないらしい、というのは一口飲んで身体が学んだ。第一に感じたのは薄いということだが、それも薄過ぎない絶妙な薄さというか、店主に文句を言いたい気持ちは鮮明にあるが、その気持ちが削がれる程度に酒の味自体はあるのだ。
それと、出てくるつまみは悪くはなかった。他の店で出てくるような一品に必ず何かしら隠し味を供えていて、それが更に性質が悪いところではある。
今度来る時は酒を持ち込んでやろうかとこの酒場の名を冠している、ニューデルスタの裏街のやさぐれた空気に馴染んだ枯れ木のような老人を眺めながら思った。
手癖で懐から煙草を一本取り出してライターで火をつける。
目の前に座った女性は、クロガラスの胸肉を焼いた一口大のグリルチキンをフォークに刺して上品に口に入れていた。
「美味しいねこれ。スパイスが効いてる」
「お前辛いの好きじゃなかったろ」
「最近食べられるようになってきた」
「へえ、そいつはいい。今度行く店が決まったな」
煙草の煙がふわりと溶ける様をぼんやりと眺めながら酒のグラスを手に取ろうとしたところで、
「ピルロも食べる?」
「良いのか?」
「だってあんた酒ばっかでまだちょっとしか口にしてないじゃん。ちゃんと食べなよ、男の子」
こちらの方が歳上なのに微妙に子供扱いをされる(といっても元々孤児なので正確な年齢かは知らない)が、気を掛けてくれること自体に不満があるわけではない。「じゃあ一口貰いますよっと」
手元のフォークで肉を差すとじわっと肉汁が出た。口に運ぶと、余熱の残る肉が口の中に広がる。肉の甘味と何かしらの香辛料の味とが混ざりあい、紛れもなく旨味を作り出している。
念入りに肉を噛み喉へ流し、
「確かに美味えな。これで酒が美味けりゃな……」
「そう? これくらい味が無い方が長く楽しめて良いんじゃないの?」
「つっても、酔えないんじゃなあ……」
「あんたが酔ってるところなんて見たことないけど」
「おいおい、そりゃこっちの台詞だからなソローネ」
普段通りの少し感情の薄い、けれど軽薄な様子に、素直に安心感がピルロの胸の内を一杯にする。
昨晩の彼女らしからぬ態度に正直かなり心配をしていたが、現状見る限りはいつものソローネだ。
だが、それでもどこか雰囲気は違った。金剛だろうが『灰』だろうが何の躊躇いもなく執行してきたあの彼女は、どれだけ家捜したところで見つからないような気が漠然とした。
ピルロが知る限り、正確には昨夕からおかしかったわけではない。長い付き合いのせいか年齢が近いせいかプライベートだけでなく仕事を共にすることは少なくもないから、もっと前から予兆のようなものがあったのは把握していた。ソローネの氷の精神にひびが入ったのは季節が一巡する程前のことだったように思う。
それが昨晩の仕事で表層化した。建物の屋上で話してる時に、そして仕事の終わり際に感じた彼女の闇に隠れた部分に、答えがあるのだろう。
……ターゲットを一瞬で葬り去ることだけに特化した功利的で慈悲深い白刃から遊離していくことが、ピルロにとって残念じゃないと言えば嘘になる。
だが自分が笑うことを手に入れたように、彼女にもその方法が何かしらあったって良いじゃないか。それで、一日一秒でも長く生き延びる術を創造できるのであれば、これ以上のことはない。
この世界で一番大事なのは生きようとする意思ではない。まだ死にたくないと思う感情をいかに手元に残すかだ。
だとすれば尚のこと、自分は昨日のことに深く触れずに今まで通りでいようと思う。仕事のことを考えなくても良いような普通の日常を作り上げよう。この世にいるかもしれない神が、この街の影に潜む者から目を逸らし続けてくれるのを止めるまで、こんな暮らしは変わらないのだから。
心の中でらしからぬ決心を抱いて薄い酒を仰いでいると、酒場の賑やかな空気に混じってソローネの方から切り出した。
「そういえば、昨日のこと」端的な呟きに、心臓が跳ねた。「自分は何処にいたのかって話」
「あ、ああ……」
決心した矢先、まさかソローネの方から切り出してくるものとは思わず、逡巡の呟きが漏れる。煙草を咥えたまま続きを待った。
彼女は顔を俯かせ、細い指先に乗った淡い桃色の爪がグラスを軽く叩いた。それからややあって、
「正直言うと、やっぱり判らない。最近自分が何を感じているのか判らないことがある。だからピルロが訊いてきた質問の答えは、今は出せない」
普段通り銀のように澄んだ声は、極めて平静な口付きだった。
「……良いんじゃねえか? 焦って建前を重ねても仕方ねえし」
昨日言いたいことは言いきったので、今更何を告げる事もない。短く返すと、ソローネはやや上目遣いに悪戯っぽく微笑む。
「でも、掃除を躊躇った理由……解ったことは一つあるよ」
胸元に視線を落とす。左胸の膨らみにはタトゥーで描かれた蛇の尻尾が覗いている。もちろん、このタトゥーは自分の右胸から右手にかけて同じものがある。首元にあるチョーカーも同じ。それは“黒蛇盗賊団”であることの証で……絶対に逃れられないことを示す鎖だ。
そんなことをぼーっと考えていたからか、次に彼女の口から飛び出た言葉は正直聞き間違えたのかと思った。
「あのリーダーの子、ピルロに似てた」
「……は?」
全く予想だにしていなかった言い分に閉口して、ついでに煙草を酒の中に落としそうになった。
毛先に癖を持った金髪と蒼い瞳。自分を売ることもあるのでピルロも自分の容姿は大いに理解している。まあ百歩譲って色合いは似ているかもしれないが、ピルロの髪の毛は直毛だ。それに弟も妹もいなければ、ああいったリーダーをするような性格じゃないと言い切れる。
だいぶとぼけた顔をしていただろうこちらの心の声を読んでいたかのように、ソローネは続けた。
「別に、見た目じゃないよ。雰囲気っていうのかな」
「雰囲気ねえ。数人規模のグループのリーダーやってる可愛い少女少年君に似てるって?」
「……そう言われると見た目も似てるかもね」
なんでそうなる。
何処にぶつけるべきか判らない感情を、ポケットに仕舞ったライターをまさぐりながら誤魔化す。自分は今、相当な仏頂面かもしれない。仕事の時は己の心腹を悟らせない事が基本で気を張り続けているせいか、幼い頃から見知ったソローネの前だとつい素で反応を示してしまう。
肘をついて少し前傾姿勢のまま、彼女は烏羽色のセミショートを耳元までかき揚げる。雫を象った翡翠のピアスが彼女の細い指先に弄られて揺れた。
「勝ち気で、口が回って、見た目だって良い。あの子、本当にお金が欲しかったんだろうね」
「弟のためにか?」
「最初はそうだったのかもしれないけど……最後はグループのために、だったと思う」
「ふーん……」なんだか昨日までに聞いていたドニの話と食い違っているような気がするが、正直それよりもさっき言われたことが頭の中をぐるぐると回っている。「っていうかそれで俺に似てるって言われても判んねえよ……」
「あ、そこはあんま似てないよ」
「どっちだよ……」
「話逸らしたのはピルロの方でしょ」
いまいち要領を得ないというか、理不尽な応答をされたのでとりあえず黙っておこう。
「この世界で生きるか死ぬかって、実際は些細な差でしかない。それは意識だったり、運だったり。それをあの子は理解してて……」
理解なら、確かにしていた。
昨日、自分はソローネに“蛇”にいれば少なくとも下の上にはいられる、と豪語した。だというのに彼女に強く非難された時に咄嗟に反論出来なかったのは、自分が街の底辺、下水に浮かぶゴミと何ら代わり無いことを心の何処かで自覚していたから。昨晩あのターゲットが言っていた金蛇という言葉に反感を覚えたのは、触ってほしくもない痛い所を突かれたから。息をせず動かなくなれば、漂い流され、現物を見たことすらない海にまで捨てられるだけだと、改めて事実を突きつけられたから。
その実、突き詰めれば自分達とあの集団となんら変わりないから。
だがそんなもの、自分ではどうしようもない。昨日の仕事の後味の悪さが些細な歯車の噛み合わせの悪さから来ているように、自分達の影響なんてものはほんの一握りで、この街を作り変えることなんて到底出来やしない。それこそ、産まれたところからやり直さない限り。
何年か昔に一度決着をつけた自意識が沸きかけたことに自嘲する。ペシミズムな考えはとうに捨てたと思ったのだが。
どうも今日は自分がソローネのペースに崩されてる気がするなと咥えていた煙草を灰皿の上で叩き、ぱらぱらと渇いた灰を落とす。
「そんな中でね、」そんなこちらの心持ちを知ってか知らずか、ソローネは話を続ける。「自分の手の届く範囲だけでも守ろうとしてるのが、似てるって言いたかった。それが一番、言いたかった。私は……横にピルロがいてくれて良かったって思ってる」
穏やかに話す彼女の中に、昨日の希薄な面持ちは無かった。
「ピルロって、さりげなく助けてくれるから」
相変わらず少ない口数の中でゆくりない言葉をぶつけてきて、彼女の言葉はこの酒場の酒よりも遥かに身体を温めている。
身体の中で発酵した苦い空気をたっぷり五秒かけて吐き出す。
「あのな、俺は……」
言いかけた矢先、騒がしかった酒場が徐々に静まっていって、自分の声が嫌に響いてしまい思わず口を閉じた。
何事かと酒場を見回すと、カウンターで酒場の主人である老人の隣に立っていた男が、気付けばステージの横で一束の紙を抱えて一礼していた。三十手前の男だがとにかく細身で、荒事どころか運動もまともに出来なさそうな人種に見える。シックな色のベストに身を包み、きらりと光るカフスボタンも洒落たものをつけていた。
男はステージに上った。頭上の光源はこの酒場全体よりも多く、相対的にステージを明るく照らしており、男はその上に置かれた巨大な物の前に腰を掛けた。あれが楽器だ、というのは何となく解った。雑誌にも載っていたグランドピアノなるものだろう。
その楽器は左右非対称の形をしていた。男の座っている側は直線のようだが、酒場の大衆に見せている背中は曲線を描いて、おまけに重そうな蓋が中途半端な角度に開き軸に支えられてこちらに中身を晒している。構造はさっぱりだが、その形にも蓋が開いてることにも理由はあるのだろう。
楽器の前に座した男が首をリズムよく揺らした後、楽器から一度にいくつもの音が鳴り響く。個々では意味を為さない音が時に軽やかに、時に尾を引いて音楽というものを形作る。席に座って聞き入る者達もテーブルに乗せた指でリズムを取ったり、出来上がっているものは踊ろうとして連れに止められていた。
一度、ピルロは盗みのために大劇場へ入ったことがある。舞台の上で歌いながら演劇をするオペラが行われていたが、まあ随分と非現実的な話だなと思ったものだった。没落貴族の女が、名門貴族の男に恋をしてしまう話。女はその男に会うために教養、学識、美貌、あらゆるものを身に付け、国の舞踏会で再会を果たし恋を成就させる、とお高くとまってる正に夢物語。
あれとは全く違う、随分と素朴で質素な印象を受けた。会場が暗いからだとか、見ている客層と空気感が違うからというだけじゃ、きっとなくて。
正面に座るソローネを見ると、微笑みながらグラスを傾けている。
「情熱的だね。すごい上手いってわけじゃないけど」
音楽にはやっぱり興味なんか無いし、最も音色の違いなんて判別出来るわけもない。でも鼻持ちならないと思っていた音楽も、悪くはないという評価に変わりつつあった。
「夢を追いかける人って、皆あんな感じなのかな」
太陽の光を見るかのように、彼女は黒紅の瞳を細める。
夢。その単語はピルロの中で意味を為したことなどない。持てる者しか持てないもの。劇の中の登場人物のような余裕のある者しか持てないもの。明日のことを言うと腕の蛇が笑うなんて組織の中で箴言も、その深層心理に拍車をかけていた。
肘をつきながらも彼女の向いている方を再度見やる。丁度そのタイミングで複数の音が収束、消散した。自然と寡黙になっていた酒場のあちこちから拍手の音があがり、ピアノを演奏していた細身の男が照れ笑いを浮かべながら立ち上がる。
格が一つあがっていたと錯覚するくらい大人しく上品だった喝采が止み、笑い声やがなり声で賑やかさを取り戻していく酒場の中、
「昨夜も……今日こうして酒場に誘ってくれたのも、私は助けられてるよ」
朴訥とした調子で、ソローネも口を開き始めた。何のことかと思ったら、ピアノ演奏が始まる前の会話の続きらしい。
となると、当然続くのは、
「で、俺は……なんなの?」
先程自分が言いかけた言葉である。
黒紅の瞳がこちらに向いてるのを解っていながら、ピルロは舞台の上の、もう演奏者が去ってしまったグランドピアノを見つめ続けた。
「俺は……」
昨夜の仕事の時、あの場にいた“蛇”の者はあの葉の効能を受けた。中和用の成分の入った薬は事前に受け取って服用していたが、内容は効果が出るまで効果が出ない、なんとも渋いものだった。ようは多少の幻は我慢しろといった物で、つまりあの場に突入するには多少の覚悟を決めないといけなかった。仕事である以上、拒否権なんてものは当然あるわけもない。
発端となった“黒蛇”の倉庫番もあの薬にやられてゲロったのだから多少なりとも同情してしまう。解らなくもない、自分が心を許している相手に誘われた時の気持ちの緩み方という奴は。
正気でない時、理性で動いていない時、この場の二人の間に存在しないはずの男と女という枠組みに強引に当て嵌められた。人間必ずしも持っている欲を無理矢理混ぜ捏ねて作られた衝動に踊らされた自分が腹立たしい。
結局ピルロ自身、混濁した意識の中で偽物では無く本物を深層に刻みつけながら対処するしか無かったのだ。
自分の感情くらい、自分で決めてやる。それくらいはこの街の一つの歯車にだって許されるはずだ。
「俺は、自分の利になると思ったことしかやらねえさ」
煙草の煙を肺の中で一巡させてすぼめた口から白い息を吐く。酒場の高い天井にまで届くことなく煙は消えていく。
「そ」
最低限意味を成す応答をして、ソローネはそれ以上この話を続けることはしなかった。翡翠のピアスを一度だけそっと撫でてから、彼女は手にした酒を仰いだ。
……俺は、お前だからやってるんだ。
その言葉を明確な形にしたくなくて、そっと胸の内に仕舞い込んだ。
店を出ながら、また煙草を出そうとしたらソローネに止められた。
「今日何本吸ってんの」
「なんだ、代わりに吸うか?」
「別に。口に合わないから」
「そうかい」
結局それ以上ソローネ側から咎めることはなかったので、手にした煙草には火をつけた。今日はこれで最後にするか。
「明日は総会か……」
星の無い藍色の夜空を見上げながら述懐する。
「私達は何も無いよ、今回は」
「今回はな。何せ金剛を無傷で仕留めたわけだしな」
「殆どドニの功績だけどね」
「ってーと、ドニにも奢るべきだったかね」
「今日割り勘で私奢られてないけど」
「おっと失言」
「じゃあ今度、ドニと一緒に奢ってよ」
「えー……」
今回の給金は煙草と服と日々の暮らしに要する物で消える予定だったので、余計な出費の余裕は無いんじゃないか。こういう時のソローネは冗談なのか本気なのか今一つ判断しかねるので、「気が向いたらな」とおざなりに対応すると、白い肌に乗った桃色の唇が普段の薄い笑みからもう一段階上の喜色を浮かべていた。割と本気なのかもしれない、心中で身構えながら頭の中でしばらく消費する金に余裕を持たせるべきか仕事を強引に突っ込むべきか悩みかける。
消極的な態度を見せたピルロを艶笑で流しながら、ソローネは踵を返した。
「じゃ、また明日」
「ああ」
彼女の軽くなったように見える背中を横目に、ピルロは酒場前の欄干に腕を置き身体を預けた。
下町と言ってもまだまだこの辺りは治安は良い方だ。表からガス灯も続いているので、街のことを知らない旅の人間が訪れることも珍しくはない。半夜も遠いこんな時間だと、ちょっと足を踏み外し掛けているだけの表の人間も行き交っているのがよく判る。
(俺も音楽やってみようかなあ……)
明るい雰囲気に流されて柄にもない事を考えたが、脳内で咀嚼されることなく筒抜けて流れ出てしまった。全く興味の無かった自分でさえ今日のピアノは悪くは無いと思えたが、自分が楽器を手にして取り組んでいる姿は想像がつかない。どうも自分の頭には努力して取り組むといった類の単語が見当たらない。今まで学んできた物事は仕事に必要なことであって、その起源は努力では無く常識だったのだから。
(夢……か)
ソローネに感化されたのか、その単語は甘ったるい砂糖菓子のように後を引いた。
夢なんて、未来なんて考えたことがなかった。首元には自分達を縛る黒い首輪がある。これは自分が死ぬまで付き合っていかないといけないものなのだろうと隠然と、しかし自分達の内界の根底に必ずあるものだった。“黒蛇”から逃げ出した奴らの結末を、自分は多く見てきたからだ。
死ぬ、というのも自分がしわくちゃの爺さんになって大往生なんてことも想像がし辛い。こんな生き方をしているから、死の影は常に自分の傍にある。遅かれ早かれ、何処かでくたばる。多分相当にろくでもないことで死んで地獄に送り込まれるだろう。昨晩のこともあるので、ろくでもないことの中でも裏切りという形で死ぬのは勘弁願いたいが。
どちらにしろ刹那的な生き方しか出来ないのなら、せめて今くらいを愉しむしかない。その考えを抱いてから自分の景色は截然と変わった。少なくとも無色と朱色だけだった世界に無窮の色がついた。この選択を、ピルロは後悔はしていない。
これからも美味い酒をかっくらって、煙草を吸いたいだけ吸って、気の合う仲間とたまに語らって、一日が終わったら寝る。衣食住とほんの少しの心の支えがあれば、例えこんな世界にいても満ち足りるんじゃないだろうかと、そう思う。
「金があれば、なべて世はこともなし、か……」
この街の仕組みを知り、自分の首輪の意味を大いに自覚し、辿り着いた答えは先程の彼女の感恩と同じく身体の中を暖めた。これくらいの夢は“黒蛇盗賊団”の中で叶えられる。例えこんなゴミ溜めの中でも僅かな恬淡に生きていれば、この今を引き延ばし続けることは出来るだろう。
「神は……金なのかねえ……」
ピルロの独白と煙草の煙が、薄暗い空に溶けていく。
画一的な視野しか持たない我儘な願い事を叶える流れ星は空には無かった。身贔屓な誰かさんが気紛れを起こしてくれるはずも無く、右手の裾から僅かに覗くタトゥーも、首元の黒いチョーカーも相も変わらず自分を縛り付け離してくれそうにはない。
頭上でガス灯にぶつかり続ける羽虫を一瞥して背を向ける。慣れきった街の底に停滞した塵埃に顔をしかめながらも、手にした煙草を捨てて靴の裏で火をもみ消し、手狭で採光の無いあの部屋への家路についた。
「へ、もう少しお相手さんのいる現場が良かったぜ。面白い奴がいたから良いがな」
道中子供じみた文句をフィンリーが言うのを、他の三人はいい加減うんざりしながらもアジトの最低限の物色を終えた。フィンリーのお楽しみとやらに付き合っていたら夜が明けてしまう。それに本格的に中を調べるのと死体の処理は明朝からドニと他の“蛇”のメンバーで進めることになっている。ソローネ達がやることは、もう無かった。
「じゃあな、良い夢が見れるぜ」
と真っ先にリーダーのフィンリーがいなくなる。彼は現場責任として“蛇”の巣に報告する義務がある。少年達の、ではなく誰かお相手が置いていったのだろう高級そうなコートをかっぱらって返り血を隠しながら、闇へと消えていく。
「俺はガキの怨み節を背負った熊に襲われる夢でも見そうだぜ、ったく」
「同感だ」
ピルロの悪態に、ドニが肩を落として同意する。
それはそれとして、と一刻も早く既に去った男を話題から追い出す。
「ドニ、今日はありがとな。お前と組めてラッキーだったぜ」
ピルロがドニの細い肩を叩く。人畜無害そうな顔をしているドニはこの中でも一番の策士だ。本人達に殺しのスキルがあるわけでもない、たかが数人のそのアジトの殲滅なんかが金剛クラスの仕事だったのは、もちろん“黒蛇”の溜め込んだ金銀財宝からスキャンダラスな情報の居場所を知っているという理由で優先順位の高さは何物にも勝るだろうが、あの葉を常用しているせいで安易にテリトリーに侵入出来ないことが、攻略難易の壁を高めていたからだ。それを打ち破る術を実行したのがドニだ。
ソローネも今回のドニの働きは称えられるべきだと思うが、ドニは人の好い笑顔を浮かべて、話題になることから逃げる。
「そんなことねえよ。俺が他の奴らの相手してる間に後味悪くしちまったみたいだし」
「仕事の味に良いも悪いもねえ、赤い血が鉄臭いタップダンスを踊ってるだけだ。それに……ま、今回はほんの少し歯車の噛み合わせが悪かっただけさ」
「……ありがとな、ピルロ」
ドニが筋書きを作り上げた時点では、今回の仕事のメンバーは一人だけだったのだから仕方が無い、誰も悪いわけではないと暗にピルロは言い、ドニも言い分を察する。
「ともかくピルロとソローネが一緒で俺も助かった。どうも掃除は俺に向いてない」
そういうドニも実際手捌きもそこまで悪くは無い。でないとこんな歳まで組織では生き残れない。ドニは相対的にピルロとソローネの方が腕が立つ、と言っているのだろう。
「掃除の腕が全てじゃねえさ。さっきも言ったろ、お前と組めて良かったってな」
「そうだよ。自分のことはちゃんと評価しなきゃ」
二人がかりで称賛してようやくドニのそばかすの浮かんだ顔が少しはにかむ。気の知れた仲のドニに、ピルロが一言を添えた。
「もちろん、これで驕られたら困るがな」
「フフ、そうだね」
「こらこら、ぬか喜びさせるのはよしてくれよ、素直に凹むだろ」
眉を下げて笑う様は、街中を歩いていても特段目にかけない純朴な雰囲気で、右腕の蛇のタトゥーと首についた黒いチョーカーがなければ平凡に生きていく道を歩んでいたのかな、と思わされた。
この葉を渡さなきゃいけない奴がいるからと、ドニの幅広い人脈の何処に欲しがる悪趣味な奴がいるのやら、散々な目に遭わされた物を持って言うドニと別れ、ピルロと二人で場末の路地を歩き出した。
「ドニはもうちょい自己評価あげてほしいんだがな」
不満げにこぼしながらも、彼は懐から煙草を取り出して火をつけている。手持ち無沙汰になるとすぐにピルロは無聊をもて余すように何かをしていた。大抵は煙草だが、ソローネから見たらピルロは少し生き急いでいるようで時々不安になる。こうして横に並んで歩いているはずなのに、気付けば斜め前を、手が届かないくらいずっと前を歩き進んで、人生の崖を転落していくんじゃないかと考えてしまう。
「実際はしてるんだと思うけどね、それを表に出さないのがドニの処世術かも」
「はー、それ言われると別の意味でそら恐ろしくなるが……」青年は会話の速度を一度緩めて、煙草の煙を吐き出す。「あいつはリアルの自分と意識を別に切り離してる。だから血に飢えたり恐怖を覚えたりしない、自分事じゃないからな。こんな世界を生きる上で一番合理的かもしれねえ」
一仕事を終えて気怠げに語るピルロは完全に弛緩していた。「そうかもね」隣を歩くソローネも正直あまり考え事はしたくなかった。
気が散漫なまま薄墨色の路地を進んでいく。二人とも押し黙ったままガス灯の灯りの届かない薄闇を右に曲がり、左に曲がり、頭痛も相俟って蹌踉とした足取りになりかける。
「……ソローネはどうなんだ?」
ピルロが突然歩調を落とした。数歩先で、ソローネも足を止める。
纏っていた懈怠な空気が薄れ、肌の表面がひりつくような緊迫した雰囲気が混じるのを感じた。
「なあ、ソローネ。やっぱり今日のお前は感傷的過ぎる。リアルのお前がナイフを握ってた間、心は何処にいた?」詰問するような鋭い口調。しかし次にはトーンを下げて柔らかくなっていた。「俺には言えないか、お前の悩みは」
窮屈そうな顔で、きっと言っているのだろう。口に咥えた煙草の紫煙が、闇夜に不可解な模様を描いて消えていくのが想像できた。
「……自分でも、わかんなくて」
意を決して出した声は何年かぶりに喋ったように掠れていた。心配してくれているピルロに対して振り返ることがどうしてもできない。
「私達がしようとしたこと、正しかったのかな」
そのことか、と小さく息を吐いたのが聞こえた。
「そいつは俺らが決めることじゃない。……もう動かなくなった奴らが決めることだ」淡然と、彼は続ける。「だが例え何も知らないで俺達に殺されていようが、ドニの計画の通りあの可愛い金髪碧眼の少女少年二人が仲間に八つ裂きにされていようが、結果は同じだ。俺達の今日の仕事は成功した、それだけだ」
あの場で真っ先に怒りを露わにしていた青年は、もう遠い昔の話をしているかのように飄然と語る。
「確かにな、あの熊野郎の独断のせいで気分は良くねえさ。俺もああいう手合いは好かない」
背後の気配が近付き、ソローネを追い越していく。
「今夜は失敗しなかったから良かったとだけ思っておけ。失敗したら待っているのは蛇のようにしなる鞭だが、成功したら待っているのは金とクソ親共からの腐った名誉だ。まあ名誉はともかく……金が手元に残るのはそう悪いことじゃない。有難いことにこの報酬の仕組みは“蛇”には存在するし、多少の羽振りも良いと来た」
こちらにおもむろに振り返った幼さの残る顔を、頭上の鈍く乏しい月明りがうっすらと照らしている。透けるような亜麻色の髪が月光を反射し、毛先付近には首を縛る黒いチョーカーが浮いて見えた。ピルロは煙草の持っていない左手でチョーカーを指し示す。
「俺達には首輪がある。鎖は二人の親に繋がってる。これがある限り、俺達は“蛇”なんだ。この街の裏の、少なくとも下の上にはいられるんだぜ」
「それは……どういう意味で言ってるの」
自分でもぞっとするほど出し抜けの冷たい声音に、ピルロが絶句する。
このニューデルスタにおいて、富豪達との間に毛細血管のように張り巡らされた閥は、間違いなく“黒蛇盗賊団”が一番の規模を誇っている。彼の言った下の上に位置している立場が、間違っているはずがない。なんでこんなことを言ったのか自分でも解らない。
「……ごめん」
気まずい空気を払いのけるように、謝罪が口を継いで出ていた。けれど、そうして実際に間違いじゃないと思っていたはずのことを否定すると、喉元に異物が刺さったような気持ち悪さが残った。
落ち着かない様子で目を逸らしていたピルロは、ソローネの言葉を聞いて軽く首を振る。
「構わねえさ。人間常に陽気であれって方が無理難題なこった。だがソローネ、どうしようもねえことは、一人で抱えるな」
肩を竦めて普段の調子で明るく応えてくれる。それが今のソローネには辛かった。これ以上話していると分別のつかないまま、何か良からぬことを口走ってしまいそうだった。
足早にピルロの側を通り抜ける。横に並んだ一瞬だけ足を止め、
「……ごめん、今日は」
声にならない嘆息が聞こえた。何か言いたげに頭を掻いてどう見ても納得してなさそうな態度だったが、「ああ。明日、十七時にロビーでな。忘れんなよ、ソローネ」と言い残して別の方向へと歩いていく。“黒蛇”が用いているヤサはいくつかあり、ソローネとピルロの部屋は別の建物に割り振られている。男女で、というよりかは蛇の双頭を担う“マザー”派か“ファーザー”派か、の意味合いの方が圧倒的に強い。実際、ソローネの隣の部屋は二つ上と五つ下の男の部屋だ。
暗い夜道を一人で歩く。表通りはガス灯が点火していて今の時間でも明るいが、こんな裏路地に灯りなんてあるはずもなく、ぼんやりとした視界の中を歩いていく。
いくら夜の顔も持つニューデルスタであっても、深更にもなると静かだった。建物の隙間を縫った風が地面に落ちているゴミを巻き上げ、或いは転がしていく。舗装された道の上はゴミ箱と地続きだと言わんばかりに汚かった。
色んな人種も感情もごった煮のこの街を歩く自分は、正に風に煽られている駄物のようだった。生きるために道を指し示してくれた自分の神様の言う通りに、感情を捨てて誰かの大切な物を奪い、痛みを捨てて誰かの命を奪い、手元に残るものは一体なんなのか。
未来がなく、希望がなく、夢がなく。
自分が何処を歩いていて、何処に行きたいのか。今のソローネには全く解らなかった。
本当の神様がもしいるのなら迷える羊に道を照らしてくれるのだろうか、という考えはすぐに捨てた。夕方、あの建物の屋上で昔馴染みが言ったように、本当にそんな何かがいるのだとしたら、“黒蛇”なんて薄汚いものはとっくに消え去っているだろうし、今も子供達がそういう教育を受けることもないだろう。そうでない今のこの世界には神様なんていないか、身贔屓なのか、蛇で喉笛を噛みちぎれるくらいに弱っちいのか。
左手の甲を見下ろすと、真っ黒な楕円形のタトゥーから小馬鹿にするように舌が伸びている。
腕の蛇が、笑っている。
明日を見るなと、笑っている――
『明日、十七時にロビーでな』
さっき交わした会話が脳内で稲光する。
声変わりしてだいぶ低くなったけど、今になってもあどけなさが残る落ち着いた声。
煙草のにおいがする。鼻の奥をつく、彼の習癖になっている煙草のにおいだ。
『忘れんなよ、ソローネ』
暗澹と、黒い幕を下ろされた様に見えなくなっていた先の景色が、数歩先だけではあるけど開けたような気がした。
一方的に繰り返す日々の中であっても、一緒に未来を語ってくれる奴がいる。躊躇も無く、損得も無く、横に立ってくれる存在に今までどれだけ救われたことか。彼のおかげで五本の指があり、日に焼けていない白い足があり、こんな自分でもまだ人であることを自覚できる。
『守るものでも作ったら』
あの場で少年が言った言葉が反芻する。彼がどういう意図で言ったのかは判らない。棘のある嫌味だったのか、度を超えたお節介だったのか、でもその言葉は不思議とソローネの奥底に瑕のように彫られて残っていた。
(守るもの……)
他人から物を奪い、命を奪い続けてきた自分の手元に抱えるものなんて、そんなもの、あるわけがない。
答えは、未だ見つかりそうにない。
だけど、守りたいものは何かはわからないけれど、手放したくない、と思えるものは確かにあった。
明日会ったら、言いそびれてしまった礼を言おう。
今は、それで十分なのかもしれない。
もう少し時間が経てば東の空から太陽が上り始める。この街の濁りきった空気が、とても爽やかとは程遠い朝霧を作り出す頃だろう。
例え射界の外にいたとしても、その光景は眺めることが出来る。
ソローネは数刻後に見えるであろう景色を、心の中に思い浮かべた。
+++++
少し考えて、結局いつもと変わらない地味めの格好にした。普段から自分なりに身だしなみは整えているし、それに選り好みする程手元に材料が無い事に気付いてしまった。色めきだった行為をするのも頭の中のピースが嵌まらない感じがして気持ちが悪い。からかいのネタにもされるだろうし。相手にもそうだが、見知った人物に出会ってしまった場合特に。
なんだか言い逃れっぽいな、とあれやこれやと思考を巡らせてから自分に呆れてしまった。
昨日仕事で入った建物と比したところで大した違いもないような狭く簡素な部屋。違う所は、地下にあるので小窓すらなく採光が望めないところ。流石に換気口はあるので、煙草が吸えるだけマシか。また寝床、衣服、後は街で買った本や新聞はきちんと自分で整頓しているところも異なる点と言えるだろう。
部屋の隅に置かれた、自分が来る前からずっと置かれている木製の古びたテーブルにはお洒落なランタンが置かれ、ニューデルスタの店先に最近売られるようになった雑誌とやらが開きっぱなしだった。そこに書かれているのはモントレーン酒場という裏街の小さな酒場で、グランドピアノなる楽器を弾く演奏家とやらが集まってきて、立地にも関わらずちょっぴり上品な客も来たりしている所である旨が書いてある。こういう大衆向けの物に裏街を取り上げられることなんて殆ど無いので、印象的に記憶に残っていたのだ。
……今夜のことが、多少は気晴らしになってくれればいい。
結局最後に使い古した煤色のコートを羽織り、雑誌を閉じながらランタンの火を消して、ピルロは自室を出る。飾り気という言葉に縁も無い武骨な階段を上り外に出ると、夕闇も段々と濃くなり青灰色の空が徐々に一面を染め上げていた。呑気に浮かんだ雲は判然としない形と色で浮かび、建物がせせこましく林立する鬱蒼としたこの都会に伸びた影を描いていた。
どうやら酒場が盛況なのは酒が美味いせいではないらしい、というのは一口飲んで身体が学んだ。第一に感じたのは薄いということだが、それも薄過ぎない絶妙な薄さというか、店主に文句を言いたい気持ちは鮮明にあるが、その気持ちが削がれる程度に酒の味自体はあるのだ。
それと、出てくるつまみは悪くはなかった。他の店で出てくるような一品に必ず何かしら隠し味を供えていて、それが更に性質が悪いところではある。
今度来る時は酒を持ち込んでやろうかとこの酒場の名を冠している、ニューデルスタの裏街のやさぐれた空気に馴染んだ枯れ木のような老人を眺めながら思った。
手癖で懐から煙草を一本取り出してライターで火をつける。
目の前に座った女性は、クロガラスの胸肉を焼いた一口大のグリルチキンをフォークに刺して上品に口に入れていた。
「美味しいねこれ。スパイスが効いてる」
「お前辛いの好きじゃなかったろ」
「最近食べられるようになってきた」
「へえ、そいつはいい。今度行く店が決まったな」
煙草の煙がふわりと溶ける様をぼんやりと眺めながら酒のグラスを手に取ろうとしたところで、
「ピルロも食べる?」
「良いのか?」
「だってあんた酒ばっかでまだちょっとしか口にしてないじゃん。ちゃんと食べなよ、男の子」
こちらの方が歳上なのに微妙に子供扱いをされる(といっても元々孤児なので正確な年齢かは知らない)が、気を掛けてくれること自体に不満があるわけではない。「じゃあ一口貰いますよっと」
手元のフォークで肉を差すとじわっと肉汁が出た。口に運ぶと、余熱の残る肉が口の中に広がる。肉の甘味と何かしらの香辛料の味とが混ざりあい、紛れもなく旨味を作り出している。
念入りに肉を噛み喉へ流し、
「確かに美味えな。これで酒が美味けりゃな……」
「そう? これくらい味が無い方が長く楽しめて良いんじゃないの?」
「つっても、酔えないんじゃなあ……」
「あんたが酔ってるところなんて見たことないけど」
「おいおい、そりゃこっちの台詞だからなソローネ」
普段通りの少し感情の薄い、けれど軽薄な様子に、素直に安心感がピルロの胸の内を一杯にする。
昨晩の彼女らしからぬ態度に正直かなり心配をしていたが、現状見る限りはいつものソローネだ。
だが、それでもどこか雰囲気は違った。金剛だろうが『灰』だろうが何の躊躇いもなく執行してきたあの彼女は、どれだけ家捜したところで見つからないような気が漠然とした。
ピルロが知る限り、正確には昨夕からおかしかったわけではない。長い付き合いのせいか年齢が近いせいかプライベートだけでなく仕事を共にすることは少なくもないから、もっと前から予兆のようなものがあったのは把握していた。ソローネの氷の精神にひびが入ったのは季節が一巡する程前のことだったように思う。
それが昨晩の仕事で表層化した。建物の屋上で話してる時に、そして仕事の終わり際に感じた彼女の闇に隠れた部分に、答えがあるのだろう。
……ターゲットを一瞬で葬り去ることだけに特化した功利的で慈悲深い白刃から遊離していくことが、ピルロにとって残念じゃないと言えば嘘になる。
だが自分が笑うことを手に入れたように、彼女にもその方法が何かしらあったって良いじゃないか。それで、一日一秒でも長く生き延びる術を創造できるのであれば、これ以上のことはない。
この世界で一番大事なのは生きようとする意思ではない。まだ死にたくないと思う感情をいかに手元に残すかだ。
だとすれば尚のこと、自分は昨日のことに深く触れずに今まで通りでいようと思う。仕事のことを考えなくても良いような普通の日常を作り上げよう。この世にいるかもしれない神が、この街の影に潜む者から目を逸らし続けてくれるのを止めるまで、こんな暮らしは変わらないのだから。
心の中でらしからぬ決心を抱いて薄い酒を仰いでいると、酒場の賑やかな空気に混じってソローネの方から切り出した。
「そういえば、昨日のこと」端的な呟きに、心臓が跳ねた。「自分は何処にいたのかって話」
「あ、ああ……」
決心した矢先、まさかソローネの方から切り出してくるものとは思わず、逡巡の呟きが漏れる。煙草を咥えたまま続きを待った。
彼女は顔を俯かせ、細い指先に乗った淡い桃色の爪がグラスを軽く叩いた。それからややあって、
「正直言うと、やっぱり判らない。最近自分が何を感じているのか判らないことがある。だからピルロが訊いてきた質問の答えは、今は出せない」
普段通り銀のように澄んだ声は、極めて平静な口付きだった。
「……良いんじゃねえか? 焦って建前を重ねても仕方ねえし」
昨日言いたいことは言いきったので、今更何を告げる事もない。短く返すと、ソローネはやや上目遣いに悪戯っぽく微笑む。
「でも、掃除を躊躇った理由……解ったことは一つあるよ」
胸元に視線を落とす。左胸の膨らみにはタトゥーで描かれた蛇の尻尾が覗いている。もちろん、このタトゥーは自分の右胸から右手にかけて同じものがある。首元にあるチョーカーも同じ。それは“黒蛇盗賊団”であることの証で……絶対に逃れられないことを示す鎖だ。
そんなことをぼーっと考えていたからか、次に彼女の口から飛び出た言葉は正直聞き間違えたのかと思った。
「あのリーダーの子、ピルロに似てた」
「……は?」
全く予想だにしていなかった言い分に閉口して、ついでに煙草を酒の中に落としそうになった。
毛先に癖を持った金髪と蒼い瞳。自分を売ることもあるのでピルロも自分の容姿は大いに理解している。まあ百歩譲って色合いは似ているかもしれないが、ピルロの髪の毛は直毛だ。それに弟も妹もいなければ、ああいったリーダーをするような性格じゃないと言い切れる。
だいぶとぼけた顔をしていただろうこちらの心の声を読んでいたかのように、ソローネは続けた。
「別に、見た目じゃないよ。雰囲気っていうのかな」
「雰囲気ねえ。数人規模のグループのリーダーやってる可愛い少女少年君に似てるって?」
「……そう言われると見た目も似てるかもね」
なんでそうなる。
何処にぶつけるべきか判らない感情を、ポケットに仕舞ったライターをまさぐりながら誤魔化す。自分は今、相当な仏頂面かもしれない。仕事の時は己の心腹を悟らせない事が基本で気を張り続けているせいか、幼い頃から見知ったソローネの前だとつい素で反応を示してしまう。
肘をついて少し前傾姿勢のまま、彼女は烏羽色のセミショートを耳元までかき揚げる。雫を象った翡翠のピアスが彼女の細い指先に弄られて揺れた。
「勝ち気で、口が回って、見た目だって良い。あの子、本当にお金が欲しかったんだろうね」
「弟のためにか?」
「最初はそうだったのかもしれないけど……最後はグループのために、だったと思う」
「ふーん……」なんだか昨日までに聞いていたドニの話と食い違っているような気がするが、正直それよりもさっき言われたことが頭の中をぐるぐると回っている。「っていうかそれで俺に似てるって言われても判んねえよ……」
「あ、そこはあんま似てないよ」
「どっちだよ……」
「話逸らしたのはピルロの方でしょ」
いまいち要領を得ないというか、理不尽な応答をされたのでとりあえず黙っておこう。
「この世界で生きるか死ぬかって、実際は些細な差でしかない。それは意識だったり、運だったり。それをあの子は理解してて……」
理解なら、確かにしていた。
昨日、自分はソローネに“蛇”にいれば少なくとも下の上にはいられる、と豪語した。だというのに彼女に強く非難された時に咄嗟に反論出来なかったのは、自分が街の底辺、下水に浮かぶゴミと何ら代わり無いことを心の何処かで自覚していたから。昨晩あのターゲットが言っていた金蛇という言葉に反感を覚えたのは、触ってほしくもない痛い所を突かれたから。息をせず動かなくなれば、漂い流され、現物を見たことすらない海にまで捨てられるだけだと、改めて事実を突きつけられたから。
その実、突き詰めれば自分達とあの集団となんら変わりないから。
だがそんなもの、自分ではどうしようもない。昨日の仕事の後味の悪さが些細な歯車の噛み合わせの悪さから来ているように、自分達の影響なんてものはほんの一握りで、この街を作り変えることなんて到底出来やしない。それこそ、産まれたところからやり直さない限り。
何年か昔に一度決着をつけた自意識が沸きかけたことに自嘲する。ペシミズムな考えはとうに捨てたと思ったのだが。
どうも今日は自分がソローネのペースに崩されてる気がするなと咥えていた煙草を灰皿の上で叩き、ぱらぱらと渇いた灰を落とす。
「そんな中でね、」そんなこちらの心持ちを知ってか知らずか、ソローネは話を続ける。「自分の手の届く範囲だけでも守ろうとしてるのが、似てるって言いたかった。それが一番、言いたかった。私は……横にピルロがいてくれて良かったって思ってる」
穏やかに話す彼女の中に、昨日の希薄な面持ちは無かった。
「ピルロって、さりげなく助けてくれるから」
相変わらず少ない口数の中でゆくりない言葉をぶつけてきて、彼女の言葉はこの酒場の酒よりも遥かに身体を温めている。
身体の中で発酵した苦い空気をたっぷり五秒かけて吐き出す。
「あのな、俺は……」
言いかけた矢先、騒がしかった酒場が徐々に静まっていって、自分の声が嫌に響いてしまい思わず口を閉じた。
何事かと酒場を見回すと、カウンターで酒場の主人である老人の隣に立っていた男が、気付けばステージの横で一束の紙を抱えて一礼していた。三十手前の男だがとにかく細身で、荒事どころか運動もまともに出来なさそうな人種に見える。シックな色のベストに身を包み、きらりと光るカフスボタンも洒落たものをつけていた。
男はステージに上った。頭上の光源はこの酒場全体よりも多く、相対的にステージを明るく照らしており、男はその上に置かれた巨大な物の前に腰を掛けた。あれが楽器だ、というのは何となく解った。雑誌にも載っていたグランドピアノなるものだろう。
その楽器は左右非対称の形をしていた。男の座っている側は直線のようだが、酒場の大衆に見せている背中は曲線を描いて、おまけに重そうな蓋が中途半端な角度に開き軸に支えられてこちらに中身を晒している。構造はさっぱりだが、その形にも蓋が開いてることにも理由はあるのだろう。
楽器の前に座した男が首をリズムよく揺らした後、楽器から一度にいくつもの音が鳴り響く。個々では意味を為さない音が時に軽やかに、時に尾を引いて音楽というものを形作る。席に座って聞き入る者達もテーブルに乗せた指でリズムを取ったり、出来上がっているものは踊ろうとして連れに止められていた。
一度、ピルロは盗みのために大劇場へ入ったことがある。舞台の上で歌いながら演劇をするオペラが行われていたが、まあ随分と非現実的な話だなと思ったものだった。没落貴族の女が、名門貴族の男に恋をしてしまう話。女はその男に会うために教養、学識、美貌、あらゆるものを身に付け、国の舞踏会で再会を果たし恋を成就させる、とお高くとまってる正に夢物語。
あれとは全く違う、随分と素朴で質素な印象を受けた。会場が暗いからだとか、見ている客層と空気感が違うからというだけじゃ、きっとなくて。
正面に座るソローネを見ると、微笑みながらグラスを傾けている。
「情熱的だね。すごい上手いってわけじゃないけど」
音楽にはやっぱり興味なんか無いし、最も音色の違いなんて判別出来るわけもない。でも鼻持ちならないと思っていた音楽も、悪くはないという評価に変わりつつあった。
「夢を追いかける人って、皆あんな感じなのかな」
太陽の光を見るかのように、彼女は黒紅の瞳を細める。
夢。その単語はピルロの中で意味を為したことなどない。持てる者しか持てないもの。劇の中の登場人物のような余裕のある者しか持てないもの。明日のことを言うと腕の蛇が笑うなんて組織の中で箴言も、その深層心理に拍車をかけていた。
肘をつきながらも彼女の向いている方を再度見やる。丁度そのタイミングで複数の音が収束、消散した。自然と寡黙になっていた酒場のあちこちから拍手の音があがり、ピアノを演奏していた細身の男が照れ笑いを浮かべながら立ち上がる。
格が一つあがっていたと錯覚するくらい大人しく上品だった喝采が止み、笑い声やがなり声で賑やかさを取り戻していく酒場の中、
「昨夜も……今日こうして酒場に誘ってくれたのも、私は助けられてるよ」
朴訥とした調子で、ソローネも口を開き始めた。何のことかと思ったら、ピアノ演奏が始まる前の会話の続きらしい。
となると、当然続くのは、
「で、俺は……なんなの?」
先程自分が言いかけた言葉である。
黒紅の瞳がこちらに向いてるのを解っていながら、ピルロは舞台の上の、もう演奏者が去ってしまったグランドピアノを見つめ続けた。
「俺は……」
昨夜の仕事の時、あの場にいた“蛇”の者はあの葉の効能を受けた。中和用の成分の入った薬は事前に受け取って服用していたが、内容は効果が出るまで効果が出ない、なんとも渋いものだった。ようは多少の幻は我慢しろといった物で、つまりあの場に突入するには多少の覚悟を決めないといけなかった。仕事である以上、拒否権なんてものは当然あるわけもない。
発端となった“黒蛇”の倉庫番もあの薬にやられてゲロったのだから多少なりとも同情してしまう。解らなくもない、自分が心を許している相手に誘われた時の気持ちの緩み方という奴は。
正気でない時、理性で動いていない時、この場の二人の間に存在しないはずの男と女という枠組みに強引に当て嵌められた。人間必ずしも持っている欲を無理矢理混ぜ捏ねて作られた衝動に踊らされた自分が腹立たしい。
結局ピルロ自身、混濁した意識の中で偽物では無く本物を深層に刻みつけながら対処するしか無かったのだ。
自分の感情くらい、自分で決めてやる。それくらいはこの街の一つの歯車にだって許されるはずだ。
「俺は、自分の利になると思ったことしかやらねえさ」
煙草の煙を肺の中で一巡させてすぼめた口から白い息を吐く。酒場の高い天井にまで届くことなく煙は消えていく。
「そ」
最低限意味を成す応答をして、ソローネはそれ以上この話を続けることはしなかった。翡翠のピアスを一度だけそっと撫でてから、彼女は手にした酒を仰いだ。
……俺は、お前だからやってるんだ。
その言葉を明確な形にしたくなくて、そっと胸の内に仕舞い込んだ。
店を出ながら、また煙草を出そうとしたらソローネに止められた。
「今日何本吸ってんの」
「なんだ、代わりに吸うか?」
「別に。口に合わないから」
「そうかい」
結局それ以上ソローネ側から咎めることはなかったので、手にした煙草には火をつけた。今日はこれで最後にするか。
「明日は総会か……」
星の無い藍色の夜空を見上げながら述懐する。
「私達は何も無いよ、今回は」
「今回はな。何せ金剛を無傷で仕留めたわけだしな」
「殆どドニの功績だけどね」
「ってーと、ドニにも奢るべきだったかね」
「今日割り勘で私奢られてないけど」
「おっと失言」
「じゃあ今度、ドニと一緒に奢ってよ」
「えー……」
今回の給金は煙草と服と日々の暮らしに要する物で消える予定だったので、余計な出費の余裕は無いんじゃないか。こういう時のソローネは冗談なのか本気なのか今一つ判断しかねるので、「気が向いたらな」とおざなりに対応すると、白い肌に乗った桃色の唇が普段の薄い笑みからもう一段階上の喜色を浮かべていた。割と本気なのかもしれない、心中で身構えながら頭の中でしばらく消費する金に余裕を持たせるべきか仕事を強引に突っ込むべきか悩みかける。
消極的な態度を見せたピルロを艶笑で流しながら、ソローネは踵を返した。
「じゃ、また明日」
「ああ」
彼女の軽くなったように見える背中を横目に、ピルロは酒場前の欄干に腕を置き身体を預けた。
下町と言ってもまだまだこの辺りは治安は良い方だ。表からガス灯も続いているので、街のことを知らない旅の人間が訪れることも珍しくはない。半夜も遠いこんな時間だと、ちょっと足を踏み外し掛けているだけの表の人間も行き交っているのがよく判る。
(俺も音楽やってみようかなあ……)
明るい雰囲気に流されて柄にもない事を考えたが、脳内で咀嚼されることなく筒抜けて流れ出てしまった。全く興味の無かった自分でさえ今日のピアノは悪くは無いと思えたが、自分が楽器を手にして取り組んでいる姿は想像がつかない。どうも自分の頭には努力して取り組むといった類の単語が見当たらない。今まで学んできた物事は仕事に必要なことであって、その起源は努力では無く常識だったのだから。
(夢……か)
ソローネに感化されたのか、その単語は甘ったるい砂糖菓子のように後を引いた。
夢なんて、未来なんて考えたことがなかった。首元には自分達を縛る黒い首輪がある。これは自分が死ぬまで付き合っていかないといけないものなのだろうと隠然と、しかし自分達の内界の根底に必ずあるものだった。“黒蛇”から逃げ出した奴らの結末を、自分は多く見てきたからだ。
死ぬ、というのも自分がしわくちゃの爺さんになって大往生なんてことも想像がし辛い。こんな生き方をしているから、死の影は常に自分の傍にある。遅かれ早かれ、何処かでくたばる。多分相当にろくでもないことで死んで地獄に送り込まれるだろう。昨晩のこともあるので、ろくでもないことの中でも裏切りという形で死ぬのは勘弁願いたいが。
どちらにしろ刹那的な生き方しか出来ないのなら、せめて今くらいを愉しむしかない。その考えを抱いてから自分の景色は截然と変わった。少なくとも無色と朱色だけだった世界に無窮の色がついた。この選択を、ピルロは後悔はしていない。
これからも美味い酒をかっくらって、煙草を吸いたいだけ吸って、気の合う仲間とたまに語らって、一日が終わったら寝る。衣食住とほんの少しの心の支えがあれば、例えこんな世界にいても満ち足りるんじゃないだろうかと、そう思う。
「金があれば、なべて世はこともなし、か……」
この街の仕組みを知り、自分の首輪の意味を大いに自覚し、辿り着いた答えは先程の彼女の感恩と同じく身体の中を暖めた。これくらいの夢は“黒蛇盗賊団”の中で叶えられる。例えこんなゴミ溜めの中でも僅かな恬淡に生きていれば、この今を引き延ばし続けることは出来るだろう。
「神は……金なのかねえ……」
ピルロの独白と煙草の煙が、薄暗い空に溶けていく。
画一的な視野しか持たない我儘な願い事を叶える流れ星は空には無かった。身贔屓な誰かさんが気紛れを起こしてくれるはずも無く、右手の裾から僅かに覗くタトゥーも、首元の黒いチョーカーも相も変わらず自分を縛り付け離してくれそうにはない。
頭上でガス灯にぶつかり続ける羽虫を一瞥して背を向ける。慣れきった街の底に停滞した塵埃に顔をしかめながらも、手にした煙草を捨てて靴の裏で火をもみ消し、手狭で採光の無いあの部屋への家路についた。
※ここから言い訳エリア
・未成年は煙草やお酒を嗜んだらいけません
・煙草ポイ捨てもいけません
・ドニの設定を大いにモリモリにしました。モリモリにし過ぎてこいつ失ったら大損害じゃん感ありますがそれはピルロソローネも一緒だから問題ないね。作中では鍵開け得意と青髪くらいしか判りません……良い奴だった……
・現実に当て嵌めた場合の時代設定が今一つ判らないので(紙巻煙草はあるけど産業革命前だとか)、その辺の背景は結構緩く作ってます
・タトゥーの設定は本編にあるかはいまいちわかりませんが(ソローネの現状のイラストだと左胸や左手があんま見えない、ピルロは服と手袋で隠れて見えない)、設定資料集のネタです(資料集では利き手に蛇の刺青と書いてある)。ここでソローネが左利きと判ります。因みに筆者は強めの左利き厨です
※ここまで言い訳エリア
ヒカキャスが眩し過ぎたので、じとじとに暗いのが書きたくなりました(挨拶)。
そもそも別ジャンルに行くんじゃなかったのかこの人。一週間くらい別の所に行ってたはずなんですが全く筆が進まず、結局戻ってきました。オクトラ2の沼に引き摺り下ろされてしまいもうどうにもなりません。タスケテ……。
というわけで、ピルソロです。この二人、実は好きだったのです。
といっても、プレイ中はすごい好き!ではなく気になる、程度でした。雨の中で戦うソローネ1章のどうしようもなさがドストライクでさ……立ち絵変わるのズルいじゃん。ズルいよ……。
そして少し時が経ち。
まず第一の燃料で公式からばら撒かれたのが大陸のソローネの絵。なんでか背景にピルロが映っている。ありがとうございます!
そして更に燃料を燃やした一番の油は、味方の戦闘台詞のまとめをしている時に見つけたこれ。
ありがとうございます!!ピルロの狂おしいくらい好きな戦闘台詞これ #NintendoSwitch pic.twitter.com/5YsWy7aeks
— ヴィオ (@chiika_kirby) July 5, 2023
頭の中でパズルがハマりました!
これだから台詞集め止めらんねーぜ!!!
(台詞集めた記事はこちらにあるので興味があればどうぞ)
で、更にピルロも大陸に来る。どっちも引かざるを得なかったよね……。
ここでどうでも良い事を呟くと、大陸ではピルロはダブルワイドバースト(ブレイク属性無視全体2回)、ソローネはトリプルワイドバースト(ブレイク属性無視全体3回)なところがなんか好きなんですよね。解りますか。そうですか、解ってくれますか。
ただ、ピルソロと書きながらも個人的に恋愛が絡むよりかは、どちらも性別自体を武器にする事があると思うので、逆にそういうのを気にしない間柄として気楽に接しているのかなという妄想です。漠然と恋愛なんてもんに縛られるなんてやだな~なんて思っているのかもしれない……のかもしれない。
でもやっぱり友達以上な関係でいてほしい気持ちもあったりして悩ましい。世の中の意見が分かれるところですが、自分は性別を越えた友達以上の仲はあると思ってる派です。まあ、彼らの場合はその前に異母きょうだいなわけですが……自分はそこからもう一歩欲しいですねはい。
後、ソローネの定期的な「ピルロ……」も好きなんですよはい。2章父、4章と彼のことが定期的に出てくるのが良くないですか?良いと思います。
4章のクロード戦はHP低すぎて弱いので大体の人が一瞬でぶちのめしてしまって技の内容わかんないと思いますが、改めて戦うと本当に精神破壊極めてて酷いよ。ピルソロに嵌まれば嵌まる程怒りが沸いてきて好きなボスです。
というわけで。
ここでようやくはっきり言いきりますが、本編よりも6年前、ソローネ17歳を書きました。
ピルロは何歳……かは解らないので、イメージ的には一つ上くらいかなってことになっています。調べられる前に死ぬからしゃあない。
ソローネもピルロも本編での考えとは異なるというか、むしろぼんやりとその道を見付けたようなそうでないような感じの話。ソローネは「何が欲しいか」を見付けるのは本編1章であるので迷走中ですが、ピルロの出した答えが正しいかは別であり。
共に歩いて支え合っているけれど、どうしようもなく見ているものも、目指す場所も違っている、みたいなのが伝わっていればと思います。頭抱えながらピルロのあほんだら!とか思って読んでもらえれば幸いです。
今回も一個前のオクトラ2小説に準えてオクトラ2のBGM流しながら推敲しようと思ったんですが、感情が右往左往し過ぎて難しくないかこれってなってましたが、
軋む心 → 静寂の地下道 → 策謀 → 華やかなる都会-夜- → 軋む心 → 華やかなる都会-夜- → ギルのアドリブ → 華やかなる都会-夜-
な感じで聴くと雰囲気出るかもしれません。
まだまだオクトラ2は書いていく予定はありますが、そろそろ他も書かなきゃいけない時期になってきている気がします。無限に時間が欲しいんだけど何処で売ってますかね。
ここまで読んでいただきありがとうございました。
もしよろしければ拍手やコメントなどいただけると嬉しくて飛び跳ねます。
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HN:ヴィオHP:性別:非公開自己紹介:・色々なジャンルのゲームを触る自称ゲーマー
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