ポケ迷宮。
ネッツの端っこにあるヴィオののんびり日記的な旧時代的個人ブログ。大体気に入ったゲームについて語ってます。
オクトラ小説4作目。
プリムロゼ1章の話を中心に、オルベリクやアーフェンと仲間になる経緯を書いた二次創作です。
オクトラ4周年おめでとう!!!!
長くて1記事に収まらねえよ!って言われたので3分割にしています。
オルベリク、プリムロゼ、アーフェンの各1章のネタバレを含んでいます。
カップリング等はありません。
血等の表現が若干あるため苦手な方は注意してください。
それでは「功罪の秤は誰のために」です、どうぞ。
23.7.13 誤字脱字等少し手直ししました
プリムロゼ1章の話を中心に、オルベリクやアーフェンと仲間になる経緯を書いた二次創作です。
オクトラ4周年おめでとう!!!!
長くて1記事に収まらねえよ!って言われたので3分割にしています。
オルベリク、プリムロゼ、アーフェンの各1章のネタバレを含んでいます。
カップリング等はありません。
血等の表現が若干あるため苦手な方は注意してください。
それでは「功罪の秤は誰のために」です、どうぞ。
23.7.13 誤字脱字等少し手直ししました
功罪の秤は誰のために
オルベリク・アイゼンバーグは辟易していた。
「ねぇそこのお兄さぁん、うちの酒場に寄ってかないぃ?」
「寄らん、触るな」
これでもう七人目である。大体この歳でお兄さんと呼ばれる事には違和感しかなく、寒気すら走る。
ウェーブのかかったショートの金髪に顔はフェイスベールで口元から下を隠し、ビキニ姿に空色のショールを羽織り、同じく空色のハーレムパンツの女性が甘い香りを漂わせながらまだ何か言いたげに爪に真っ赤なマニキュアを塗った手を伸ばしてきたが、足早に人の往来の中へ紛れんでやり過ごした。十歩も進めば隣の店の敷地にまで辿り着き流石に付いてきてないだろうなと横目で見ると、派手な衣装の女性はショールを翻しながら街行く次の客にあっさりと尻尾を振っていた。
そんな景色を眺めている間にもあちこちから客引きの声が聞こえる。時刻が薄暮ということもあり、特に飲食の行えるお店の前には熱心に声を張り上げている者が立っていた。ここ何年かは穏やかな村で過ごしてきたオルベリクにとってこの街は目まぐるしく感じる。
自身の生涯で縁の無いと思っていたこの街に来ている理由は一つ、かつて世話になった一人の恩師の元に求める物があったからだ。
しかし彼の店に着く前に、早くも精神的に参っていた。何故こんなところで店を開いているのかと、まだ見ぬ恩師を呪いたい気持ちでいっぱいになる。勝手に来ているのはこっちなのだが。
ここは砂漠の歓楽街サンシェイド。オルステラ大陸の南部に位置するサンランド地方の入口にあたる街である。
そして今歩いているのは街一番のメインストリートだ。昼間は食物、食器、服や織物等を売る露天商が並び、夜にはその背後の歓楽街が動き出す。この街の活気を表す象徴的な目抜き通りだ。
ぱっと見た様子では日用品が売られている印象が強いが、中には耳元と口の端っこに目がついた熊のぬいぐるみという見る者を震え上がらせるような不気味な品もあり、練り歩く人も国籍や人種を問わず種々雑多な風景を見せていた。
もちろんこんな歩きにくいメインストリートを避けて目的地を目指すという手もあったが、裕福な街には必然的に貧民層がいて、裏路地に入ってしまうとそういう者と出会うことが多くなることをオルベリクは理解していた。好んでいざこざに突っ込む気は毛頭無かったのでこうして人通りの多い道を歩いているが、これもこれで疲弊する。夕方だけあって肌を焼くような暑さは引いていることが唯一の救いだったが、その分客引きが少々下品に思える。街の性格上仕方の無いことなのだが。
恩師とは故郷を去った後でも文通をしており、そこでは遊びに来いとしょっちゅう言われていたが、実際に来たのは初めてだ。だが場所は知っている。メインストリート最奥の巨大酒場から手前に三店右手……いちいち手紙の末端に暗号のように書いてくるものだからすっかり覚えてしまった。
「――おい、待ちやがれ!」
喧騒の中、正面から怒りを示した若い男性の声がはっきりと聞こえた。
それと同時に背丈が自分の半分くらいのすばしっこい生き物が、人混みを器用に縫って、極め付けにオルベリクの目前を歩いていた体格の倍くらい横に大きい女性を避けて姿を現す。
オルベリクが動じなかったため小さい生き物は更に進路を少し右にずらすが、オルベリクの伸ばした足が影の足に引っ掛かった。
「うわっ」
年端もいかない少年のそれだった。つんのめった少年の腕を掴み背後に回ってもう片方の手も拘束する。その手の中にあったのはぺしゃんこの小さな紐付きの袋だった。
「くそ! 何しやがる!」
声変わりも起こる前のハスキーな声がオルベリクに罵声を投げつける。肩でばっさり切られた茶色い髪は砂漠の砂が絡まっている。服は膝上まで丈のある白いシャツを着て、暴れている足はハーレムパンツの裾を千切って履いているのは、サイズの合わない服を無理矢理少年用に拵えているようだ。履いていたフラットサンダルは、オルベリクが少年を捕まえた時に片方脱げて転がっていた。
「離せ! 離せったら!」
暴れる少年とオルベリクを中心に半径何歩かの空間ができる。通行人は野次を飛ばすか無関心かのどちらかで、手を出す者はいない。用心を怠った者が標的になるこの街で、余計なことに首を突っ込むことに何の得も無い。最悪背後から斬られる可能性だってあるわけだ。自分のことは自分の責任で、砂漠という厳しい環境で必然的に興った思想なのかもしれないなと余所者のらしい感想が頭の中に流れていった。
「あ、このガキ! 俺の財布!」
見物人を掻き分け一人の長身の男性が駆け寄ってくる。草原を思わせる常磐色の外套をはためかせる青年の背丈は自分と同じくらいだが、比較的線は細い。辺りに広がる砂漠と同じ金色の髪の毛を跳ねさせオールバックにしており、余った後ろ髪はゴムで縛ってあった。
袈裟懸けにかけているベージュの鞄には小さなポケットがいくつもついている。ベージュの鞄は薬師の証。故郷にいた時にも戦時には多くの薬師が駆り出され、一様に肩からかけたベージュの鞄の中に魔法のような薬品を詰め込んでいた。
彼もそうなのだろうか。彼は推定二十前半とかなり若く、どうにもこの街に似合わない人当たりの良さそうな顔をしている。
「これの事か?」
少年の手からもぎ取った袋を青年に渡すと、嬉しそうに彼は受け取って中身を確認する。
「おお、これこれ。中身も無事だ」
オルベリクが財布を手にした印象通りというか、彼が中身を確認するのを見る限りあまり大した額が入っておらず、とても歓楽街を楽しもうというような客に見えない。もしくはもう負けて帰るところなのだろうか。
「助かったよ傭兵さん」
サーコートを着ているからか剣を携えているからか微妙な勘違いをされているが訂正するのも面倒なので、返答はしない。実際に傭兵業をしていた頃もあるといえばあるので嘘でも無いだろう。
彼は懐に財布を仕舞いながらもう大丈夫だと目配せをしてきたので、オルベリクは少年の拘束を解いた。
「へん、こんな街で不用心に財布をポケットに入れてんのが悪いんだぜ」
自由になった少年が脱げたサンダルを履き直し、口の端をあげながら金髪の青年に唾を吐く。青年は腰を下ろして対等な視線を築くと、半目で少年に顔を近付けて睨み返した。
「無用心なのは認めるけどな、人様から物を盗むなって誰にも習わなかったのかよ」
「習うわけないだろ、親父がやってこいって言ってんのに」
子供の勝ち。一対零。
「だったらその親父の顔を見せてみろ、俺が一発ぶん殴ってやる」
「余計な事すんな。親父だって人に脅されてうちに金なんてないんだ。今日の夕飯だってねーんだぞ」
子供の勝ち。二対零。
そして黙りこくった青年に対して。
「かっこつけるならもっとタニンのジジョウってのに気を使えよな!」
勝利の捨て台詞を言い放ち地面を蹴り出そうとする……ところを青年の細い腕が少年の更に細い手首を掴んでいた。少年は頬を膨らませて、
「何すんだよ!」
「お前、怪我してるだろ。治してやるから、ちょっと来い」
「お、おい、ちょっと、誘拐は犯罪だぞ!」
「しねえって、すぐそこ移動するだけだって。ここ道のど真ん中だぞ。それにスリも犯罪だ」
少年が暴れてもびくともせず、されるがままにメインストリートの端にまで二人が移動してしまった。面白がって見ていた客も何もこれ以上の騒ぎがないと判断するや否や関心が無くなったのかメインストリートは人がまた自然と流れていき、微妙に取り残される形になったオルベリクは顛末だけは見守ろうと二人にくっついてストリートの端に身を寄せた。
「傭兵さん、ちょっと押さえててくれないか?」
話の流れでなんとなくついてきていたオルベリクに、青年は当然のように少年の手を渡してきた。その流れで少年の手を掴んだが抵抗する気も起きないのか暴れる様子もなく、傍から見ればただの手を繋いでいる親子のように見えなくもない等と無駄な考えがはたらく。
そんな暇をもて余した状態だったので少年に視線を戻した。青年の指摘通り、左の前腕に引っ掻いたような跡があり赤い線が出来ている。
ズボンが汚れるのもお構いなしに座り込んだ青年は手慣れた手つきで、鞄から街の外で着ていたのだろうマントを地面の上に置いた後、脱脂綿、ピンセット、小瓶を取り出した。ピンセットに脱脂綿を挟みながら小瓶の蓋を開け(小瓶の蓋は小瓶と紐で結ばれており無くす心配はないよう几帳面な工夫されている。蓋には文字が書かれており、中身が確認できるようだ)、瓶の中にピンセットを突っ込み、脱脂綿を湿らせる。
流れるような動作にオルベリクは思わず嘆声が出た。
「ちょっとひんやりするぞー」
と青年が言うや否や身体を痙攣させ恨みがましい目で「もっと早く言えよ!」と少年が口論。対して青年は「言ったでしょうが」と笑いかけた。ピンセットを咥えながら瓶の蓋を閉めて鞄にしまいこむと、ガーゼを取りだし少年の腕に張り付ける。
「と、これで大丈夫だ。明日になったら外して大丈夫だぜ」
口を尖らせて少年はしばらく黙っていた。ガーゼを貼った箇所を一瞬見て、それから年不相応な射抜くような眼差しを薬師に向けている。
「……金は絶対に払わねぇぞ」
なるほど、お金が無いのにどうして傷なんて治したんだと青年を睨んでいたようだ。一方で睨まれている当の本人はけろっとして答えた。
「お代なんて要らねえよ。俺がやりたいからやった、それだけなんだからよ」
こんなことを騎士時代に言う奴がいれば、何処からか口笛を鳴らすやつがいるところだ。淀みの一切無い彼が言う言葉は相手が貧しい子供だから言っているわけではないように聞こえた。常にその思想を持っているのだとしたら、彼はとんでもない人種なのではないだろうか。
「……あんた、悪いお医者さんとは違うんだね」
心持ち警戒心の解かれた声で、少年は呟いた。
「悪いお医者さん? なんだそりゃ」
困惑したように青年に問われても今日来たばかりの旅人が知るはずもなく、オルベリクも首を横に振る。
「なんでもねえよ」そう言って立ち上がろうとする少年をまたしても引っ張る青年。「なんだよ、まだ何かあんのかよ」
「ある。だからそう慌てなさんなって」
鞄の中に治療道具をしまいこむと、少年に盗まれ戻ってきたばかりのさもしい財布から少年にコインを数枚握らせた。
「今晩はこれで親父さんと二人分、何か食えるだろ」
財布の重さや隙間から見たところ大した金額が入っていなかったように思うが、彼はその一部を少年に渡すらしい。一時の同情なのか、憐みなのか。その真義は理解しかねるが、実際に少年は疑わしそうな顔をして手元のコインを見ている。肩で切られた髪が風に煽られ年端もいかない少年の顔に乱暴にぶつかる。
「あんた、何者?」
「ん? ただの薬師だけど」
その言葉に更に疑わしい視線が向けられるが、青年の方は気にした風も無く「ほれ、この鞄が目に入らぬかー」などと少年に向かって鞄を持ち上げて笑顔を投げかける。
顔に押し付けられる鞄をめんどくさそうに押し退けて、少年は立ち上がって今度こそ走り去っていってしまった。
「親父さん大事にしろよ、大事な一人娘なんだろ?」
「うっせー! 二人娘だよ!」
「ありゃ、こりゃ失敬」
「……あー」
娘だったのか。言われてみると少女に見えなくもない。見えなくもないのだが、あの年頃の子供は体格的にも声質的にも殆ど区別がつかないのは自分だけだろうか。
胸中で悶々としていると、青年が白い歯を光らせて笑った。
「傭兵さんも、ありがとな」
「いや、良いものを見させてもらった」
「そうか? 薬師として当たり前の事をしただけさ」
大半の薬師は間違いなく同じ気持ちで怪我人や病人を診ているだろう。その志は尊敬に値する。だが彼にはそれ以上の感情を感じる。お金は要らない、そしてあまつさえ財布を盗んだ少女にお金を渡す。献身という言葉を超えているようにも思う。大したやつだと賞賛するべきか、浅慮であると思うべきか――どちらにせよ、一会の人物に多く語る程自分はお喋りではない。
今度は布袋をしっかりと鞄にしまった青年は、服に付いた砂を掃いながら、
「俺はこっちに行くけど、あんたは?」
「あっちだ」
メインストリート最奥の巨大酒場から手前に三店右手……なので、もう少し奥に歩かねば見えてこないだろう。一方で青年が指差したのはメインストリートの出入口の方面だった。丸っきり反対方向という事は縁もここまでだ。
「じゃあ良い旅を、傭兵さん」
「ああ、良い旅を」
人の流れに乗って、目的の家へとまた歩き出す。
懐かしい音がする。断続的に流れてくるそれは小気味よい金属音。
日干し煉瓦で出来た淡白な花葉色の壁は、かつて看板や花で飾られていた店とは似ても似つかない光景だった。八年前の出来事は自分の中で整理をつけてきたつもりだったが、爪跡を見る事はやはり気持ちの良いものでは無い。当時は門の前で茶髪のボブの女性が応対していて、彼女が呼びかけると同年代の優男風の男性が出てきたものだった。彼らはほとんどオルベリクと同い年で、よく一緒に遊びに行った仲でもあった。彼らが結婚すると聞いた時、妊娠したと聞いた時……そんなシーンが浮かんでは消えていく。
申し訳程度にかけられている暖簾を潜ると、外の乾いた熱さとは異なる籠った熱気が肌に刺さる。鼻の奥を刺激する焦げたにおいが戦場を思い出させる。
ところ狭しと置かれたハンマーや鋏、製作物の金属類、中央に置かれた金床と奥に居座る火炉で空間は埋め尽くされていた。
金床の前には入り口を背に黒いシャツを着た一人の男の姿があった。左腕に持ったハンマーを振りかぶり、金床の上へ下ろす。甲高い音。またハンマーを振りかぶり、下ろす。機械的な作業に見えるが、叩いたときの手に残る感覚と赤く燃える塊の繊細な変化を感じ取る必要のある作業だ。
何分かその作業を眺めたところで彼の手が止まった。どうやら打ち終わったらしく、巨大な溜め息と共に沈黙が訪れる。
「……お久し振りです、センジ殿」
胸に手を当て、会釈をする。丸まった背中がゆっくりとこちらを向いた。服から覗く二の腕の筋肉はたくましく、蓄えている口髭と鋭い眼光がいかつい顔に拍車をかけている。昔読んだ絵本に出てくる悪い海賊の船長にそっくりだ、という第一印象を抱いていたのを思い出した。
しかしこちらを認めるなり悪だくみを考える絵本の中の海賊船長とは違った、大らかで豪快な笑顔へと変わった。
「おう、おうおう! オルベリクの坊主じゃねえか!」
彼が立ち上がるとオルベリクと身長はほとんど変わらないが、体格は彼の方が一回り大きい。再会前はもっと巨体だと思っていたが、子供の頃からのイメージが抜けきらないのか、もしくは彼の身体が老化に勝てないのか。
「もう坊主って歳じゃあねえか。男前になっちまってよ」
右と左で違う足音を立てて巨躯が近寄ってくる。そういえば彼の左足は元々あまり良くなく、当時から補助具を装着していた。
右手に持ったハンマーを肩に置きながら、左手でこちらの肩を叩いてくる。記憶の中にある手はもっと大きくてごつごつと岩のような頑丈さを持っていたはずだが、血管が浮き出て幾分か指も細く見えた。
「いえ、まだ若輩者の身です……センジ殿もお元気そうで何よりです」
手紙で壮健なことは知っていたが、実際に顔を合わせると色んな感情と当時の風景が込み上げてくる。奥から鳴り響く甲高い音と、熱気と、焼け焦げたような石炭のにおいはあの頃と変わることは無かった。
「なんだ、センジおじさんとはもう呼んでくれないのか?」
「いつの話ですか。最後に会った時も手紙でも、そう呼んでた覚えはありませんよ」
「そうだっけか?」
彼はまた豪快に笑った。センジおじさんと呼んでいたのは十本の指で歳が数えられる時までだ。
「お前、散々来いっつって来なかったのによ、どういう風の吹き回しだ?」
記憶にあるよりも幾分か白くなった髪を掻いた。オルベリクは彼が武器を打っている間に出していた四つ結びにした布を胸の前に出す。
「武器を、買いたいんです」
笑みを浮かべていた口髭が心持ちきつく締まる。
「ほう、その剣を変えるか?」
「いえ、剣はこのまま」剣は、あの頃から変えていない。いずれ使えなくなる日まで共にあると決めている。「欲しいのは槍です」
「……なるほど。本気でエアハルト坊主でも探しに行こうってわけか?」
無言で彼を見つめる。今自分の瞳には、物騒な光がぎらついているのだろうと感じる。戦の時に持っていたような人殺しの目付きに近いかもしれない、求めるものをひたすら追い続ける、獣の目。
「……良いだろう。積もる話は酒の席だ。一級品の槍をくれてやろう」
じゃら、と手渡した布袋は獣の鎖を彷彿とさせる音を鳴らした。
+++++
アーフェン・グリーングラスは辟易していた。
「ねぇそこのお兄さぁん、うちの酒場に寄ってかないぃ?」
「わりぃ、また今度」
これで七人目である。ああ勿体無いと心の底から思っていた。
赤い口紅をひいた女性が、艶やかな腰まで伸びる黒髪を掻き上げながら話しかけてくる。薔薇の香りと女性の美しさに釣られて思わずそのまま店へ入りそうになるが、どうにか理性を保って目を合わせないままさっさと去ることにする。後ろの方から舌打ちが聞こえたような気がして、本当に薔薇みたいに怖いやつだなと心中で毒づいた。
歓楽街を早く抜けたい。それから今日の夜の事を真剣に考えたい。
何しろ、財布の中に転がってるのはせいぜい酒二杯分くらいのお金しかないのである。何度見てもそんな非情な事実が変わるはずもなく、アーフェンは街の中をとぼとぼ歩くしかなかった。
せっかくの砂漠の歓楽街サンシェイドに来たのだから街で一番盛り上がっている酒場に行こうと思ったのだが、これっぽっちの金では長居出来そうにない。というかそれ以前に宿どうしようという虚しさが募っている段階である。砂漠の夜はひどく冷えるというから屋根くらいはほしかったのだが、酒二杯分の金で泊まれる宿など聞いたことが無い。
このままだと医者の不養生で明日には風邪でも引いてぶっ倒れている可能性だってある。黄濁した景色の中で埋もれて死にたくはない。せめて死ぬなら故郷の家か、草原の中で息絶えたいなあと思ってしまう。
気付けば空の色は燃えるような橙色から冷めた青灰色に少しずつ塗り替えられてきていた。これからの時間が本番だという店はトーチに薪を投げ入れ、一つまた一つと地上に星を落とし、日用品を売っているようなお店は商品を畳んで姿を消し始めている。避けながら歩く必要のあったごみごみとした人は蜃気楼のように失せてしまっていて、実は砂漠の中に生きている町なんていなかったのではという奇妙な幻覚を見ている気分にもなるが、建物の中から聞こえてくる喧騒が夢ではないことを伝えてくれる。
一面に砂漠が広がるサンランド地方、その入口の町サンシェイド。歓楽街として特に酒の席で見られるという踊子の舞に、胸を高鳴らせる者も多いという。
アーフェンもそのうちの一人のつもりだったのだ。この道中で砂漠に生えると言われる薬の材料を採って費用の足しにしようかとも思ったのに、何故かこれっぽっちも見当たらなかった。
見当たらないといえば少し語弊がある。文字通り根こそぎ誰かに取られていたのだ。葉っぱが必要な植物ならばわざわざ根を採る必要は無いはずなので、その価値を知らない者がやったのだろうとアーフェンは考えた。諦めて牙や皮が使えるような蛇や蜥蜴等に切り替えて探しては見たが、こちらも何故かこれっぽっちも出会えなかった。
なんとか辛うじて宿くらいにはありつけると気分を上げたのだが、先程の少女に渡したお金で寂しい財布もただの袋へと退化してしまった。
非常食を街の中で口にするのもそれはそれで侘しいなと、美味しい匂いが漂い始めたメインストリートを恨みがましく抜けた時だった。
子供の泣き声が聞こえた。
「ママ、ネリがぁ! ネリが死んじゃうよぉ!」
「まあどうしましょうどうしましょう」
メインストリートの出入口の十字路に目を向けると、どうやら少女とその母親の間に白い誰かを囲っていた。会話の内容から病人かと慌てて駆け寄るが、中型の犬だと理解したのはアーフェンが彼女らに声をかけた時だった。
「あなたは……?」
ヒジャブを被り黒いサリーを羽織った女性が振り返る。子供がいるとは思えない、それどころか先程子供がママと呼んでいなければ姉かと疑ってしまう程の美人だった。思わず見惚れて二の句を告げるのを忘れてしまいかけ、アーフェンは大きく咳払いした。
「アーフェンってんだ。薬師をしてる。ちょっとその犬を診せてもらっていいか?」
母親の警戒心は薬師という言葉を聞いて和らいだ。頷くと子供を犬から引き離してくれた。人以外は専門外だが、通じるところもあるはずだ。
「よしよし、痛かったろ」
身体をゆっくりさすりながら瞳や口の中を見ていく。舌は正常な色をしているが興奮しているのか息が少し荒い。更に奥を見ると何やら糸くずのような塊が見えた。喉に詰まって呼吸が苦しいようだ。
「奥さん、支えてもらって良いですかい?」
犬の前足から上半身を親子に支えてもらい肩甲骨に当たる部分を数回叩く。すると小さな咳と共に、絡まった糸がぽろりと吐き出された。
もう一回撫でようとすると犬がぶるると身体を震わせてアーフェンから離れて子供の元へとそそくさと駆け寄っていく。人見知りなのか、アーフェンの事を暴力をはたらいた敵だと思われたのかは判らないが、寂しい反応に肩を竦める。
「ネリ! 良かった!」
少女が地面を蹴ってぴょんぴょんと跳ねると、合わせて犬も四肢をめいいっぱいに伸ばしてぴょんぴょんと跳ねて、多分だが喜びを表現しているようだった。
母親がその様子を見て、口元を押さえながら感嘆の声をあげた。くりりと丸い瞳は子供とそっくりだ。
「まあ……ありがとうございます。その、少ないですが」
と懐から取り出されたのはお金、なのだがそこまでは想定出来た。だが、その額はアーフェンの財布の中身の何十倍もある。下手したら百倍まで行くかもしれない。
信じられない札束の厚さにアーフェンは目を白黒させた。本当に文字通り視界がちかちかしたのだ。なにかあのお金から変な光線が出て攻撃してきていると言われても信じる。
「お、おいおいおい。こんなにもらえねえよ。薬を出したわけでもねえし!」
「こんなに……ですか? ほんのお気持ちなのですが……」
心底困ったように眉をハの字にする女性。恐らく自分も同じような表情をしているに違いない。その額は今まで一回の診療で貰ったことのある額を遥かに超えている。おいそれとはいありがとうと受け取れるわけがない。多分そんなことをしたら呪われる。誰にかはぱっと言われても判らないが、とりあえず浮かんだその顔は故郷に住む友の顔をしていた。
絶対にこんなもの受け取れるわけがない。鋼鉄の意志で誓っていると「お願いします。受け取っていただかないとネリのご先祖に申し訳が立ちません!」と大きな目をうるうると輝かせて迫られる。本気で犬のご両親や先人(先犬?)に祟られると思っているらしく、声が若干ひっくり返っている。
取って食われそうな程の距離に女性の顔が近付いてきて、身から香る花の匂いにどぎまぎしてしまい、がらがらと派手な音を立てて鋼鉄の意志が瓦解していく。
「わ、わーったわーった! ただし四分の一……えー……さ、三分の……」あまり近寄られると胸が……。「あー半分だ、半分で良い。それ以上は受け取れねぇ」
「ありがとうございますっ」
何とかこっちが多少折れる形で頷くと、女性はやっとアーフェンから離れてくれた。子供と犬に視線を落とすと「お夕飯があるから早く帰らなくちゃね」とアーフェンのことなどもう視界に映らないかのようにそそくさと去ってしまった。
二人と一匹を見送った後に所在無さげに空を仰ぐと、太陽の恩恵は地平の向こう側へ完全に潜り込んでしまっていた。メインストリートを外れると人通りはほぼ無いが、まだ客の呼び込む声は先程歩いてきた方角から聞こえてくる。
かくしてただの袋は豪華な財布へと進化を遂げた。宿と酒場で消費しても尚有り余るお金が収まっている。何ともなしに聖火神に祈り、
(せっかくだし、当初の目的通り酒場へ行くかな)
頭を掻きながら先程まで歩いてきた道へ折り返した。
「でっけぇ……」
というのが第一印象である。故郷のリブルタイドの住民が手を繋いで囲っても足らないのではないだろうかと思ってしまう大きさだった。一方で出入口は質素に作られていて、万人を拒絶せずに招き入れてくれる魅力があった。見張りが二人立っているが、こちらを見るなり手招きをしてくれた。
シェヘラザード酒場。酒場と言われるが、酒以上に注目を浴びているのは舞台を照らす妖艶な踊り子だと言われている。その躍りに魅了された者が、或いは憧れた者が街に移住を決めたという話もよく聞く。
消沈していた気持ちが酒場を眺めているうちにふつふつと煮えてくる。何しろ今日は一日砂漠の中を彷徨ってきたのだ。これといった収穫も無く危うく夕餉無し宿無しになるところだった身としては、精神的な癒しを求めたいものである。
もうこの街に来ている者が一次会を決め終えているような時間だったにも関わらず、幸運にも席は空いていた。丁度予約を入れていたらしい男性がキャンセルに来ていて、そのおこぼれに授かることが出来たのだ。
席の番号を聞き人とすれ違えるぎりぎりの通路を何歩か歩くと、すり鉢状のホールが広がっていた。灯りはそれぞれの机の上と壁際に置かれたランタンのみ。一人用の丸机から複数人が盛り上がるようなテーブルまで多様に並んでおり、客は思い思いの時を過ごしている。中には三人掛けのチェアの真ん中に居座った男性が左右に艶やかな女性を座らせて、赤い頬を染めている席もあった。
そしてどの席からでも、奥にある巨大な舞台を見渡す事が出来た。現在はカーテンで舞台上は見えない。舞台に向かって一定の間隔で下り階段が設けられ、距離がある者でも舞台が見えるような工夫がされている。アーフェンの席は可もなく不可も無くな酒場の中央辺りだ。
席に座るなりアーフェンはまずエールとグロス豆を注文した。酒場の一杯目は必ずきんきんに冷えたエールをぐいっと飲んで舌に苦い刺激を感じながら、そのつまみには塩で甘く茹でられたグロス豆を一緒に口にすると決めている。そう時間も経たずにジョッキになみなみに注がれたエールと小皿に枝付きのグロス豆が艶やかな女性によって運ばれた。
乾杯する相手ももちろんいないので、さっき受け取った大金で酒を飲んでいる詫びに、故郷で今も薬師として勉強しているであろう親友の顔を思い浮かべてジョッキをぶつけるふりをして煽った。冷えきったエールが口を、喉を通り抜けて身体に染み渡る。旅の疲れがそれだけで三割ほど吹き飛んだように感じた。自分は思っている以上にかなり単純なのかもしれない。単純じゃないことの方が世の中は多いのだから、自分くらいは正直に生きていたいなあなどと清々しく思うわけである。
しかし、この街を歩いていると違和感というものが強く纏わりついた。財布を盗んでいった少女は着の身着のままのような格好で肌色も良いとは言えなかった。お金を盗まないといけない程に生活が困窮している。一方で犬を連れていた親子は、お金の感覚が一般人とかけ離れている程に何かに困った様子はない。アーフェンにはあまり詳しくは解らないが、身に付けていた衣服が何日分の食料に相当するのか考えるだに恐ろしい。
このちぐはぐな光景には眩暈を覚える。アーフェンの育ったリブルタイドは誰も生活が困るような事の無い穏やかな村だ。誰が誰を好き嫌いだとか今日の夕飯がどうだとか全て筒抜けになってしまうようなプライバシーの欠片もない所だが、良く言えば垣根というものが存在しない場所であり、アーフェンにとってはとても居心地の良い所でもある。
街が大きいと色んな人種がいるのは理解できる。だがここまで人と人との間に壁があるものなのだろうか。
それともう一つ引っ掛かっている言葉があった。
財布を盗んだ少女が言っていた『悪いお医者さん』。その言葉が何を意味するのかは判らないが、異物のように喉元に引っ掛かる気味の悪さがあった。人を助けるための医者に、薬師に、良いも悪いもあるものか。
この街は華やかな見た目と裏腹に、見えない何か歪なシステムがあるのだ。その現実がアーフェンにはとても歯痒かった。
二杯目のエール、ポテトフライとソーセージの組み合わせがテーブルに届くとほぼ同時にちりりんと鐘の音が酒場いっぱいに響いた。喧々としていた酒場が徐々に静かになり、皆が首を同じ方向に向けている。
アーフェンも釣られて視線を送ると、酒場に入ってきた時はカーテンで遮られていた舞台が姿を見せていた。
フェイスベールで顔を隠した女性二人が構え、舞台前方の蝋燭に照らされてより嬌艶に映る。まるで地獄か天国かの門のように芸術的だった。その後ろには複数人の男性が見たことのない衣装で見たことのない物を抱えている。女性ほど露出は多くないが、引き締まった二の腕を晒している。
直方体の椅子に座った男性がリズミカルに椅子を叩き始めた。それはどうやら椅子ではなく楽器のようで、両手と足を使って曲の基礎を組み上げていく。呼応して他の男性も手元の楽器を鳴らす。卵型の葉に葉柄をつけたような弦を弾く楽器。昔、大道芸の一団が村に来た時に少しだけ楽器を触ったことがあるが奇天烈な音しか出せなかったり、音楽と言えば母が歌ってくれた子守唄くらいしか知らないアーフェンにはこれっぽっちも縁が無いものではあったが、ステージで巻き起こる音楽の渦には自然と身体が揺れる。舞台の上で構えていた女性たちも踊り出し、ショーは始まる。
メロディは乾いた音色からしっとりとしたものに変わると、舞台の上手から一人の踊子が駆け出してきた。つむじの上でバレットで留めた栗毛色の髪の毛と酒場内の興奮が、彼女の後を追っていく。元々舞台にいた踊子は彼女に席を譲るように後方に回り控えめな所作で踊っている。
舞台の中心で踊る栗毛色の髪の女性が主役らしい。露わになっている手足は筋肉質で艶めかしく、手にしている深紅のベールを右に左にとはためかせる。野原を駆ける野うさぎのように縦横無尽に舞う。この地方には存在しないはずの爽やかな薫風が肌を撫でるような錯覚を覚える。
何より彼女の表情が印象的だった。晴れやかに、得意気に。なにものにも縛らない、気ままな猫のようなペリドットの瞳は、眩しい笑顔を浮かべていた。
(へえ……すごいな)
歓楽街サンシェイドは砂漠の広がるサンランド地方の街である。植物もほとんど育たない、寒暖の差も激しい住みにくい土地でありながら、近年は移住する人が増えているという。
その理由の一つ、踊子に魅了されたからというものはアーフェンには解る気がした。
大声援の中で踊子の舞台は幕を閉じた。周囲に倣ってアーフェンも声をあげて拍手を送る。良かったぜ、ブラボー。その声がカーテンの向こうまで聞こえているかは解らないが、会場の歓声が最後の数人になるまで拍手をし続けた。やがてまた酒場一帯はテーブルの上で笑い話や飛び交う場へと変貌する。
半分程になってしまった二杯目のエールを、ちまちまと時間をかけて喉に流し込んで堪能する。お金があるのは解っていながらも身に付いた習慣で動いてしまう自分の身体が憎い。二杯目を頼むときに一緒に頼んでいたポテトフライとソーセージの皿もゆっくりつまんでいたが底が見えてしまっている。
もう一杯頼みつつメイン頼むか、と辺りを見回して給事を探す。舞台も終わりいよいよ本格的に加熱してきた酒場では自分と同じように注文を頼む者も多く、せっかく目の前を通ってもその両手がジョッキで塞がれて少々お待ちくださーいと愛想良く言ったきりまるで来る気配がなかった。そんなやり取りをもう三度もしている。
悲しいことにお待ちくださいと言われても辛抱強く待てない性格なので、仕切り直して四人目に声を掛けようと周囲を見渡した。
すると一人の女性が外套を羽織って、まさしく風を感じる勢いで駆け寄ってくる。化粧や外套から覗く服装からしてこの酒場の者なのだろうか、と呑気に考えている間に彼女は通り過ぎていった。
同時にカシャンと金属の音が耳に届く。足元を見るとそれは前腕程の長さの鞘だった。舞踏で使う物なのだろうか、鞘はシンプルだが柄は薔薇の装飾が握るのに邪魔にならない程度に施されている。
「……あ、おい!」
思わず繊細な意匠をまじまじと見てしまったが、これは間違いなく先程走り去っていった彼女の物だ。我に返って呼び掛けようとした時には、その背中はホールの出入口に消えようとしていた。
この店の人間ではないのかと一瞬でもそんな疑問を抱いたが、すぐにその問いは脳内で否定される。あのつむじでバレットで留めた栗毛色の髪の毛、程よく筋肉のついた身体……彼女はつい先程まで舞台を支配していた女性だった。
「すいません、お待たせしました」
両手を塞いでいたジョッキを置いてきて慌てて戻ってきてくれたらしい金髪の女性が肩を上下させながら要件を聞いてくる。さっきまでならまずエールの続きを頼もうと思っていたが、手にした短剣をこのまま無関係の人間が持ってるわけにはいかない。
「悪い、これあんたの同業者が落としたみたいなんだ」
「どういった方ですか? 私から渡しておきます」
「あのさっきの舞台で中央で踊ってた……」
「……」
分厚い化粧の笑顔からぴきっとひびの割れた音が聞こえた気がした。いくら鈍感な自分でも確実に彼女の琴線に触れたらしいということは解った。「自分で渡してくださいねー」と笑顔の裏に全く隠せてもいない怒りを滲ませて去っていく女性の背中を何秒か見送ってから、アーフェンは急いで立ち上がって上着を羽織る。飲食分とチップを机の上に置き、鞄を肩に引っ掛けて走り出す。
走るのに鞘に付いていた紐は邪魔だからと手のひらにぐるぐると巻きながら走っていたので、出入口付近に向かっている人物がもう一人いることに衝突するまで気付かなかった。
「とと、わりぃ!」
「ん? お前は」
「あれ? あんたさっき会った」
自分よりも身長が高く、サーコートを着た一回り年齢が上だろう傭兵の男だった。太陽に焼けた肌は黒く、酒場の鈍い明かりに精悍な顔の左半分が照らされている。その腰には消えない傷がいくつも刻まれた長剣の鞘が、背中には逆に一切傷のない槍が差してあった。
「すまん、思い出話は後だ。見失うとまずい」
もう既に見失い掛けているので焦りは骨頂である。そんなアーフェンを差し置いて男性は顔色を変えずに問う。
「誰かに用があるのか?」
「ああ、さっき走っていった踊子の落し物があってな」
「……俺も用がある。なんなら俺が渡しておこう」
と何故かそんなことをおっしゃる。実は親子だったりとか……いやそこまでの娘のいる男性には見えない。年齢は一回り程。十二神の星座を一周するくらいの差であるのは違いない。
「いや、踊り良かったぜって直接言ってやりてぇんだ」
彼があの踊子の何なのかは判らないが、アーフェンも少し意地になって、短剣の紐が何重にも巻かれた手を力強く握り締める。
それを見てか気にせずか、傭兵は顎に手を当てて思案を始めた。しかしそれも一瞬の事で、
「……なるほどな。薬師、お前の腕を借りたい。金はある」何の事だと訊く前に彼は言った。それもドスの効いた声で。「そして一つ、これだけは守ってほしい。俺が斬った奴の治療は良いと言うまで絶対するな」
「……そいつは」
予想だにしていなかった言葉に絶句する。万人を治癒し、助ける。心の中で塑像してきたその志を崩すことなんて考えたことも無い。
「守らなければお前は連れていけない。短剣は必ず俺が届けるから、任せてもらっていい」
理解が出来ないと言えば嘘になる。恐らく、先程の踊子の女性は何らかの殺傷に関わる事件に絡んでいて、もし何かが起こっても一部は薬師として見て見ぬ振りをしろと言われている。
それだけでは自分は決して首を縦に振らなかっただろう。リブルタイドを出た時に万人を自分の薬で救うと誓ったばかりであるのに、今言われているのはそんな事をしたらお前の命は保証できないという警告であった。手が震えている。自分の根底にある誓いが必死に抵抗をしている。理念に反してまで動ける程器用な人間ではないことは自分がよく知っている。
だがもし引き返した場合、傷付いてしまうかもしれない彼女を一体誰が癒すのだろうか。一介の踊り子が危険な目に遭っているのなら、目の前の傭兵と力を合わせれば助けられるのではないだろうか。
そう思い直しアーフェンが頷こうとしたが、それよりも前に男は更に言葉を続けた。
「夕方に聞かされた悪い医者という言葉、繋がっている可能性がある。もし気になるのなら付いてこい」
夕方に会った子供が言っていた言葉だ。聞いてからずっと気持ち悪く感じていた言葉。
きっと自分の性分からして、身を翻してそれも無かったことにする方が後悔するんだろうと思った。
「……解った」
傭兵は顔色を変えずに頷いた。
+++++
「そういやお前さん笑い上戸持ちだったよな」
などと言いつつ目の前の自分の親程に年齢の違う男性はエールの髭による悪魔の笑いを張り付けて、オルベリクのジョッキに並々とエールを注いでいた。「ああ、零れますって」と言いかけてる間に木製のジョッキの許容量を越えたエールが縁から描き出される筋を辿りテーブルにまで到達する。勿体無いと胸中で呟くが後の祭りである。
「もう酔ってるんですか?」
「馬鹿言え。俺が奢ってやるんだから景気良くお前ももっと飲めってことだよ!」
「奢るって言っても、それはさっき俺が槍を買ったお金でしょう」
テーブルに立てかけた槍を横目で見ながら苦笑する。
ここはシェヘラザード酒場と呼ばれる歓楽街一の大衆酒場であった。夜に入ったばかりだというのに、既に方々から理性を失いかけたような捲し立てる声が聞こえる。目の前にいる人物が仲間入りされると大変困る。単純に力比べで負けるだろうし、何よりお互いの性格上、自分に彼を押さえられる気がしない。
「お身体に気を付けてもらわないといけない歳ですし……そんなに飲んで良いのですか」
そんなオルベリクの心配を余所に、センジは豪快に笑った。
「上等だ。これでも最近は減らしてんだ。モクももう吸ってねぇ」
「意外ですね。あれだけ吸われていたのに」
「歳取ると旨さが解らなくなっちまってな、おかげで癒しと言えば街にいる子供らをからかう時くらいよ」
そういえばオルベリクが子供だった時、あの大きな手でよく頭を叩かれていたので背が大きくならないんじゃないかと泣いたということがあった。
なんとも苦い思い出を苦い顔をして思い出していると、センジも口を引き締める。
「この街は何でも受け入れる故に、善人も悪人も集まる。勝者も敗者もごった煮だ。可哀想なのは親を選べない子供らさ。最近はそういう奴がますます増えて、とても治安が良いとは言えねえ」
確かに、と夕方に出会った少女が浮かんだ。彼女の肌に傷は無かったが、盗みを働かないと家族が飢え死にしてしまう程に困窮している家庭であることは、親が選べない子供の一人と言っても良いかもしれない。父を悪く言うなと言っていたのでその人物を責めるつもりはないが、この街が同じような人間を多く生み出しているのは間違いない。
センジは声のトーンを下げて話を続ける。
「あまり大きな声は言えんがな、ここの酒場の支配人がこの街を牛耳ってる一人だな。物も、人の流れもだ。傘下に下れば富と踊子が手に入るとは的を得てる。あの踊子達だって身寄りがねえのを引き取って育ててんだ。もし開花しなければまたぽいされる身よ。ここはいつでも戦場なのさ」
いらっしゃいませぇ、隣を歩いていた桃色の踊子服の女性が身に付けたアクセサリーを鳴らしながら通り過ぎていく。喧騒に消えて聞こえはしないと思うが、センジは彼女の後姿が小さくなってから口を開いた。
「それを知ってからはここには来なかったんだが、まあせっかくお客様が来たからには街一番の踊りを見せてやりたかったわけだ」
なるほど、なんとなくこの街がどういった街なのか全貌が解ってきた。
サンランド地方の歓楽街サンシェイド。メインストリートの露天商が店を広げる巨大な市場とあちこちに存在する大衆酒場で昼も夜も眠らない街である。一方で貧富の差が激しく、治安も良いとは言えない。
そして、金の流れの一部を握っているのはこの街一番の酒場の支配人であるという。センジの物言いを聞く限りは良い人物ではないだろう。物や人を牛耳る……では先程の人の財布を盗んだ少女が食べる物は? 傷を癒す薬は? 他人に不干渉なこの街で手助けとは愚かな事であり、貧しい者を救う事はしない。あまり気持ちの良い話ではない。
「……などと言って、センジ殿が踊りを見たかっただけでは?」
「がっはっは! そうだな、最近見てなかったからなぁ!」
何となくそんなことだろうとは思っていた。ある意味彼が変わっていないので安心してしまったが。
センジはひとしきり笑った後に、改めて肘をついて話しかけてくる。
「俺よかお前の事を教えろよ。最近どうしてたんだ」
「最近はコブルストンの方にいて……」
「コブルストンってーと、えーっと……あー、ハイランドの外れの田舎か」
「ええ、そこに住んでいる子に剣を教えていました」
あの長閑な村の日々を思い出す。太陽が昇ってから身体を動かし、太陽が沈んでから寝る穏やかな時間を。
「ほう、その心は?」
「流れて暮らすうちに、たまたまですよ」
「本当か? 他に何か考えていることは無かったか?」
質問の意図を理解しかねる。
「それって」
どういう意味なのか。言葉は突然の鐘の音にかき消される。各々好き勝手に騒いでいた声が消えていく。
「おっと、始まるぜ」
センジが指を差したのは酒場の最奥に設置された舞台だった。先程までは重たい色のカーテンが覆っていたが、袖に追いやられて中身を露わにしている。
灯りは舞台の目前に数個置かれているだけなので舞台の奥の方はかなり暗いが、サンランド地方の装束に身を包んだ数人の男性が各々の楽器を構えている。舞台の前方には左右に二人の踊子が一つの銅像のように微動だにせずに立っている。
周囲の話し声が少しずつ消えていく。全員がこの酒場の目玉を今か今かと待っていた。
唐突に響くのは打楽器の音だった。直方体の木箱を叩き、そして続いて鈴や弦が身を震わせた。それはそれぞれの楽器の音が絡み合い一つの音楽になる。音楽といえばホルンブルグで凱旋をする時や壮行式の時に華やかな金管楽器の音を聴いていたが、それとは全く毛色の違う音楽だ。目を瞑れば燦々と照りつける太陽と砂の海が浮かぶ、そんな乾いた音楽。
やがて別の楽器にメロディが移り、上手から一人の踊り子が現れた。コインベルトが乾いた音楽を飾り、唐紅のベールが舞台を華やかにする。一房に纏められた栗毛色の髪が重力を無視して肉食動物の尻尾のようにたなびく。
「……彼女は?」
「お、もしかして惚れたか?」
「違います」
「おや残念。彼女はここの看板踊子のプリムロゼってんだぜ」
看板踊子……なるほど。左右の女性の踊りも綺麗ではあるが何処かぎこちなく、二度見ることがあれば粗を気にしてしまうかもしれない不安さがある。
しかし、中央の女性、プリムロゼは人を強く惹き付けるものがあった。猫のようにしなやかな四肢を動かし翻弄する。僅かな明かりでも輝くペリドットのような瞳は小悪魔のような笑みを浮かべ、見る者を魅了する。一言で言えば蠱惑的な女性だった。少なくともこの場にいる九割の人間はその足取りを追いかけて虜にされているだろう。
だが。
(――何処かで見たことがある気がする)
オルベリクは言い知れぬ深憂と既視感を感じていた。酒場の踊子と知り合った覚えは無い。遠い昔だとしても十ほど離れた娘と知り合う機会など多くは無い。
穴が開くほど見ても既視感の答えが出ることは無かったが、改めて感じたのは彼女の動作は見えない綱を自分で敷いてその上を渡っているように見えたことだった。他の踊り子も後ろの楽器演奏者達ももっと安全なところで舞台をしているのに、彼女一人だけが細い綱の上でステップを踏み、自らを追い込んでいるような……それ程に、彼女は繊細に、そして堂々として見えた。そのアンバランスなところが魅力として見えているのか。そんな雰囲気の少女に会っていたのだとしたら記憶に強く残っているはずなのだが。
「彼女も拾われ子でな、支配人に気に入られて看板娘に上り詰めたやり手だ。彼女はいつも遠くの夜空を見て舞っている……とはここにきた詩人が残した言葉だが、実際に何を見ているんだろうな」
……一瞬、彼女と目が合った。いや、この広い酒場のことだ、合った気がしただけだと、そう思う。だがその視線は明確に怒気……いや、遥かにその感情を飛び越えて戦場でよく感じていた気配を――そう、殺気を感じた。優雅に舞う猫のような女は、獲物を狙う時の豹のような一瞥を送ってきた。自分になのか、センジになのか、それともこの酒場にいる誰かなのかは明白ではないが、酒で温まりかけていた身体が急激に冷えていく。
頭の中の引き出しを全てひっくり返してもついぞ少女の面影を見つけることは出来なかった。その印象的な気配、ペリドットの瞳を一度見れば忘れるはずがないのに。
後になって思えば、自分は少女だけにばかり気を取られていた。隣のテーブルで一人軽い酒を飲んでいた男の左腕にカラスを象った入れ墨が彫られていたことに気付いたのは、後にその男に再会してからのことだった。
「何度見てもここの酒場の踊りは最高の酒のつまみよなぁ!」
大きな口を開いて初老の男性が笑う。一方でオルベリクは解の出ない疑問の楔が、喉に刺さって抜けずにいた。
「おいおい、どうしたシケた顔してよ。サンシェイドの目玉はお気に召さなかったか?」
「いえ、確かに素晴らしいものでした。センジ殿がこの街に流れた理由がよく解ります」
「お前、俺がすけべえだって言うのか?」
「違うんですか?」
「まあ違わねえけどな」
何とも気の抜けた会話をしながら、まだ七割程残っているエールを喉に流す。周囲は自分達と同じように舞台の感想を言い合ったり、どっという笑いが起きていたり、感極まった声が聞こえてきたりと酒の回った連中が暴走し始めていた。ビキニにハーレムパンツといった衣装の女性達もあちらこちらで注文を頼まれて忙しくホールを走り回っている。
一しきりのセンジと舞台や直近の出来事の会話をして、エールのジョッキが空いてしまったので周囲を見回す。
一人の女性のその姿を見たのは、丁度その時だった。地味な色の外套を羽織ってはいるが、フードはそんな彼女の勢いに付いていけずに後ろでたなびいている。
見間違うはずもない、舞台の中央でこの場の皆を釘付けにしていた踊子プリムロゼである。ペリドットの瞳にあの舞台の上で一瞬だけ見せた剣呑な光を携えて、前だけを見て走っている。周りを見向きもせずに、危うい綱の上を渡っているあの危なげな瞳。
――ああ、そうか。
これは八年前の記憶。
自国の王を討った昔の相棒に、その瞳は似ているのだ。
あの時の彼が何を考えていたかは解らない。何度足りない頭を働かせても解る事なんて何もなくて、そうして八年が過ぎていった。
そんな自分が同じ瞳を持つ彼女に対し行うことなど、同じく答えは無い。だが、きっと今行動しないと後悔する。
気付けば立ち上がり、立て掛けた鞘を掴んでいた。
「行くのか?」
「センジ殿」
肩肘をテーブルに乗せ、ジョッキの縁を弾きながら低い声で彼は問いかける。
「さっき、お前村の子供に剣を教えてたって言ったよな」
「ええ」
「人を斬ってきた事は言ってねえな」
「当たり前です」
少しの沈黙があった。
「よし。また元気な顔を見せろよ、ここの踊子とな。お前は俺の大事な息子みたいなもんだからよ」
「……はい」
彼は言いたかったのだ。人を斬る者はなるべく少ない方が良いと。戦士は時に国のために戦場を走る事がある。人の骨肉を斬り命を断つ行為は戦場で重ねれば英雄となるが、日常ではただの殺人だ。
武器を手掛ける彼が言うのはおかしな話かもしれない。だがオルベリクにはその気持ちが痛い程伝わった。
その線引きを、ゆめゆめ忘れるなと。彼はそう言いたかったのだ。
オルベリク・アイゼンバーグは辟易していた。
「ねぇそこのお兄さぁん、うちの酒場に寄ってかないぃ?」
「寄らん、触るな」
これでもう七人目である。大体この歳でお兄さんと呼ばれる事には違和感しかなく、寒気すら走る。
ウェーブのかかったショートの金髪に顔はフェイスベールで口元から下を隠し、ビキニ姿に空色のショールを羽織り、同じく空色のハーレムパンツの女性が甘い香りを漂わせながらまだ何か言いたげに爪に真っ赤なマニキュアを塗った手を伸ばしてきたが、足早に人の往来の中へ紛れんでやり過ごした。十歩も進めば隣の店の敷地にまで辿り着き流石に付いてきてないだろうなと横目で見ると、派手な衣装の女性はショールを翻しながら街行く次の客にあっさりと尻尾を振っていた。
そんな景色を眺めている間にもあちこちから客引きの声が聞こえる。時刻が薄暮ということもあり、特に飲食の行えるお店の前には熱心に声を張り上げている者が立っていた。ここ何年かは穏やかな村で過ごしてきたオルベリクにとってこの街は目まぐるしく感じる。
自身の生涯で縁の無いと思っていたこの街に来ている理由は一つ、かつて世話になった一人の恩師の元に求める物があったからだ。
しかし彼の店に着く前に、早くも精神的に参っていた。何故こんなところで店を開いているのかと、まだ見ぬ恩師を呪いたい気持ちでいっぱいになる。勝手に来ているのはこっちなのだが。
ここは砂漠の歓楽街サンシェイド。オルステラ大陸の南部に位置するサンランド地方の入口にあたる街である。
そして今歩いているのは街一番のメインストリートだ。昼間は食物、食器、服や織物等を売る露天商が並び、夜にはその背後の歓楽街が動き出す。この街の活気を表す象徴的な目抜き通りだ。
ぱっと見た様子では日用品が売られている印象が強いが、中には耳元と口の端っこに目がついた熊のぬいぐるみという見る者を震え上がらせるような不気味な品もあり、練り歩く人も国籍や人種を問わず種々雑多な風景を見せていた。
もちろんこんな歩きにくいメインストリートを避けて目的地を目指すという手もあったが、裕福な街には必然的に貧民層がいて、裏路地に入ってしまうとそういう者と出会うことが多くなることをオルベリクは理解していた。好んでいざこざに突っ込む気は毛頭無かったのでこうして人通りの多い道を歩いているが、これもこれで疲弊する。夕方だけあって肌を焼くような暑さは引いていることが唯一の救いだったが、その分客引きが少々下品に思える。街の性格上仕方の無いことなのだが。
恩師とは故郷を去った後でも文通をしており、そこでは遊びに来いとしょっちゅう言われていたが、実際に来たのは初めてだ。だが場所は知っている。メインストリート最奥の巨大酒場から手前に三店右手……いちいち手紙の末端に暗号のように書いてくるものだからすっかり覚えてしまった。
「――おい、待ちやがれ!」
喧騒の中、正面から怒りを示した若い男性の声がはっきりと聞こえた。
それと同時に背丈が自分の半分くらいのすばしっこい生き物が、人混みを器用に縫って、極め付けにオルベリクの目前を歩いていた体格の倍くらい横に大きい女性を避けて姿を現す。
オルベリクが動じなかったため小さい生き物は更に進路を少し右にずらすが、オルベリクの伸ばした足が影の足に引っ掛かった。
「うわっ」
年端もいかない少年のそれだった。つんのめった少年の腕を掴み背後に回ってもう片方の手も拘束する。その手の中にあったのはぺしゃんこの小さな紐付きの袋だった。
「くそ! 何しやがる!」
声変わりも起こる前のハスキーな声がオルベリクに罵声を投げつける。肩でばっさり切られた茶色い髪は砂漠の砂が絡まっている。服は膝上まで丈のある白いシャツを着て、暴れている足はハーレムパンツの裾を千切って履いているのは、サイズの合わない服を無理矢理少年用に拵えているようだ。履いていたフラットサンダルは、オルベリクが少年を捕まえた時に片方脱げて転がっていた。
「離せ! 離せったら!」
暴れる少年とオルベリクを中心に半径何歩かの空間ができる。通行人は野次を飛ばすか無関心かのどちらかで、手を出す者はいない。用心を怠った者が標的になるこの街で、余計なことに首を突っ込むことに何の得も無い。最悪背後から斬られる可能性だってあるわけだ。自分のことは自分の責任で、砂漠という厳しい環境で必然的に興った思想なのかもしれないなと余所者のらしい感想が頭の中に流れていった。
「あ、このガキ! 俺の財布!」
見物人を掻き分け一人の長身の男性が駆け寄ってくる。草原を思わせる常磐色の外套をはためかせる青年の背丈は自分と同じくらいだが、比較的線は細い。辺りに広がる砂漠と同じ金色の髪の毛を跳ねさせオールバックにしており、余った後ろ髪はゴムで縛ってあった。
袈裟懸けにかけているベージュの鞄には小さなポケットがいくつもついている。ベージュの鞄は薬師の証。故郷にいた時にも戦時には多くの薬師が駆り出され、一様に肩からかけたベージュの鞄の中に魔法のような薬品を詰め込んでいた。
彼もそうなのだろうか。彼は推定二十前半とかなり若く、どうにもこの街に似合わない人当たりの良さそうな顔をしている。
「これの事か?」
少年の手からもぎ取った袋を青年に渡すと、嬉しそうに彼は受け取って中身を確認する。
「おお、これこれ。中身も無事だ」
オルベリクが財布を手にした印象通りというか、彼が中身を確認するのを見る限りあまり大した額が入っておらず、とても歓楽街を楽しもうというような客に見えない。もしくはもう負けて帰るところなのだろうか。
「助かったよ傭兵さん」
サーコートを着ているからか剣を携えているからか微妙な勘違いをされているが訂正するのも面倒なので、返答はしない。実際に傭兵業をしていた頃もあるといえばあるので嘘でも無いだろう。
彼は懐に財布を仕舞いながらもう大丈夫だと目配せをしてきたので、オルベリクは少年の拘束を解いた。
「へん、こんな街で不用心に財布をポケットに入れてんのが悪いんだぜ」
自由になった少年が脱げたサンダルを履き直し、口の端をあげながら金髪の青年に唾を吐く。青年は腰を下ろして対等な視線を築くと、半目で少年に顔を近付けて睨み返した。
「無用心なのは認めるけどな、人様から物を盗むなって誰にも習わなかったのかよ」
「習うわけないだろ、親父がやってこいって言ってんのに」
子供の勝ち。一対零。
「だったらその親父の顔を見せてみろ、俺が一発ぶん殴ってやる」
「余計な事すんな。親父だって人に脅されてうちに金なんてないんだ。今日の夕飯だってねーんだぞ」
子供の勝ち。二対零。
そして黙りこくった青年に対して。
「かっこつけるならもっとタニンのジジョウってのに気を使えよな!」
勝利の捨て台詞を言い放ち地面を蹴り出そうとする……ところを青年の細い腕が少年の更に細い手首を掴んでいた。少年は頬を膨らませて、
「何すんだよ!」
「お前、怪我してるだろ。治してやるから、ちょっと来い」
「お、おい、ちょっと、誘拐は犯罪だぞ!」
「しねえって、すぐそこ移動するだけだって。ここ道のど真ん中だぞ。それにスリも犯罪だ」
少年が暴れてもびくともせず、されるがままにメインストリートの端にまで二人が移動してしまった。面白がって見ていた客も何もこれ以上の騒ぎがないと判断するや否や関心が無くなったのかメインストリートは人がまた自然と流れていき、微妙に取り残される形になったオルベリクは顛末だけは見守ろうと二人にくっついてストリートの端に身を寄せた。
「傭兵さん、ちょっと押さえててくれないか?」
話の流れでなんとなくついてきていたオルベリクに、青年は当然のように少年の手を渡してきた。その流れで少年の手を掴んだが抵抗する気も起きないのか暴れる様子もなく、傍から見ればただの手を繋いでいる親子のように見えなくもない等と無駄な考えがはたらく。
そんな暇をもて余した状態だったので少年に視線を戻した。青年の指摘通り、左の前腕に引っ掻いたような跡があり赤い線が出来ている。
ズボンが汚れるのもお構いなしに座り込んだ青年は手慣れた手つきで、鞄から街の外で着ていたのだろうマントを地面の上に置いた後、脱脂綿、ピンセット、小瓶を取り出した。ピンセットに脱脂綿を挟みながら小瓶の蓋を開け(小瓶の蓋は小瓶と紐で結ばれており無くす心配はないよう几帳面な工夫されている。蓋には文字が書かれており、中身が確認できるようだ)、瓶の中にピンセットを突っ込み、脱脂綿を湿らせる。
流れるような動作にオルベリクは思わず嘆声が出た。
「ちょっとひんやりするぞー」
と青年が言うや否や身体を痙攣させ恨みがましい目で「もっと早く言えよ!」と少年が口論。対して青年は「言ったでしょうが」と笑いかけた。ピンセットを咥えながら瓶の蓋を閉めて鞄にしまいこむと、ガーゼを取りだし少年の腕に張り付ける。
「と、これで大丈夫だ。明日になったら外して大丈夫だぜ」
口を尖らせて少年はしばらく黙っていた。ガーゼを貼った箇所を一瞬見て、それから年不相応な射抜くような眼差しを薬師に向けている。
「……金は絶対に払わねぇぞ」
なるほど、お金が無いのにどうして傷なんて治したんだと青年を睨んでいたようだ。一方で睨まれている当の本人はけろっとして答えた。
「お代なんて要らねえよ。俺がやりたいからやった、それだけなんだからよ」
こんなことを騎士時代に言う奴がいれば、何処からか口笛を鳴らすやつがいるところだ。淀みの一切無い彼が言う言葉は相手が貧しい子供だから言っているわけではないように聞こえた。常にその思想を持っているのだとしたら、彼はとんでもない人種なのではないだろうか。
「……あんた、悪いお医者さんとは違うんだね」
心持ち警戒心の解かれた声で、少年は呟いた。
「悪いお医者さん? なんだそりゃ」
困惑したように青年に問われても今日来たばかりの旅人が知るはずもなく、オルベリクも首を横に振る。
「なんでもねえよ」そう言って立ち上がろうとする少年をまたしても引っ張る青年。「なんだよ、まだ何かあんのかよ」
「ある。だからそう慌てなさんなって」
鞄の中に治療道具をしまいこむと、少年に盗まれ戻ってきたばかりのさもしい財布から少年にコインを数枚握らせた。
「今晩はこれで親父さんと二人分、何か食えるだろ」
財布の重さや隙間から見たところ大した金額が入っていなかったように思うが、彼はその一部を少年に渡すらしい。一時の同情なのか、憐みなのか。その真義は理解しかねるが、実際に少年は疑わしそうな顔をして手元のコインを見ている。肩で切られた髪が風に煽られ年端もいかない少年の顔に乱暴にぶつかる。
「あんた、何者?」
「ん? ただの薬師だけど」
その言葉に更に疑わしい視線が向けられるが、青年の方は気にした風も無く「ほれ、この鞄が目に入らぬかー」などと少年に向かって鞄を持ち上げて笑顔を投げかける。
顔に押し付けられる鞄をめんどくさそうに押し退けて、少年は立ち上がって今度こそ走り去っていってしまった。
「親父さん大事にしろよ、大事な一人娘なんだろ?」
「うっせー! 二人娘だよ!」
「ありゃ、こりゃ失敬」
「……あー」
娘だったのか。言われてみると少女に見えなくもない。見えなくもないのだが、あの年頃の子供は体格的にも声質的にも殆ど区別がつかないのは自分だけだろうか。
胸中で悶々としていると、青年が白い歯を光らせて笑った。
「傭兵さんも、ありがとな」
「いや、良いものを見させてもらった」
「そうか? 薬師として当たり前の事をしただけさ」
大半の薬師は間違いなく同じ気持ちで怪我人や病人を診ているだろう。その志は尊敬に値する。だが彼にはそれ以上の感情を感じる。お金は要らない、そしてあまつさえ財布を盗んだ少女にお金を渡す。献身という言葉を超えているようにも思う。大したやつだと賞賛するべきか、浅慮であると思うべきか――どちらにせよ、一会の人物に多く語る程自分はお喋りではない。
今度は布袋をしっかりと鞄にしまった青年は、服に付いた砂を掃いながら、
「俺はこっちに行くけど、あんたは?」
「あっちだ」
メインストリート最奥の巨大酒場から手前に三店右手……なので、もう少し奥に歩かねば見えてこないだろう。一方で青年が指差したのはメインストリートの出入口の方面だった。丸っきり反対方向という事は縁もここまでだ。
「じゃあ良い旅を、傭兵さん」
「ああ、良い旅を」
人の流れに乗って、目的の家へとまた歩き出す。
懐かしい音がする。断続的に流れてくるそれは小気味よい金属音。
日干し煉瓦で出来た淡白な花葉色の壁は、かつて看板や花で飾られていた店とは似ても似つかない光景だった。八年前の出来事は自分の中で整理をつけてきたつもりだったが、爪跡を見る事はやはり気持ちの良いものでは無い。当時は門の前で茶髪のボブの女性が応対していて、彼女が呼びかけると同年代の優男風の男性が出てきたものだった。彼らはほとんどオルベリクと同い年で、よく一緒に遊びに行った仲でもあった。彼らが結婚すると聞いた時、妊娠したと聞いた時……そんなシーンが浮かんでは消えていく。
申し訳程度にかけられている暖簾を潜ると、外の乾いた熱さとは異なる籠った熱気が肌に刺さる。鼻の奥を刺激する焦げたにおいが戦場を思い出させる。
ところ狭しと置かれたハンマーや鋏、製作物の金属類、中央に置かれた金床と奥に居座る火炉で空間は埋め尽くされていた。
金床の前には入り口を背に黒いシャツを着た一人の男の姿があった。左腕に持ったハンマーを振りかぶり、金床の上へ下ろす。甲高い音。またハンマーを振りかぶり、下ろす。機械的な作業に見えるが、叩いたときの手に残る感覚と赤く燃える塊の繊細な変化を感じ取る必要のある作業だ。
何分かその作業を眺めたところで彼の手が止まった。どうやら打ち終わったらしく、巨大な溜め息と共に沈黙が訪れる。
「……お久し振りです、センジ殿」
胸に手を当て、会釈をする。丸まった背中がゆっくりとこちらを向いた。服から覗く二の腕の筋肉はたくましく、蓄えている口髭と鋭い眼光がいかつい顔に拍車をかけている。昔読んだ絵本に出てくる悪い海賊の船長にそっくりだ、という第一印象を抱いていたのを思い出した。
しかしこちらを認めるなり悪だくみを考える絵本の中の海賊船長とは違った、大らかで豪快な笑顔へと変わった。
「おう、おうおう! オルベリクの坊主じゃねえか!」
彼が立ち上がるとオルベリクと身長はほとんど変わらないが、体格は彼の方が一回り大きい。再会前はもっと巨体だと思っていたが、子供の頃からのイメージが抜けきらないのか、もしくは彼の身体が老化に勝てないのか。
「もう坊主って歳じゃあねえか。男前になっちまってよ」
右と左で違う足音を立てて巨躯が近寄ってくる。そういえば彼の左足は元々あまり良くなく、当時から補助具を装着していた。
右手に持ったハンマーを肩に置きながら、左手でこちらの肩を叩いてくる。記憶の中にある手はもっと大きくてごつごつと岩のような頑丈さを持っていたはずだが、血管が浮き出て幾分か指も細く見えた。
「いえ、まだ若輩者の身です……センジ殿もお元気そうで何よりです」
手紙で壮健なことは知っていたが、実際に顔を合わせると色んな感情と当時の風景が込み上げてくる。奥から鳴り響く甲高い音と、熱気と、焼け焦げたような石炭のにおいはあの頃と変わることは無かった。
「なんだ、センジおじさんとはもう呼んでくれないのか?」
「いつの話ですか。最後に会った時も手紙でも、そう呼んでた覚えはありませんよ」
「そうだっけか?」
彼はまた豪快に笑った。センジおじさんと呼んでいたのは十本の指で歳が数えられる時までだ。
「お前、散々来いっつって来なかったのによ、どういう風の吹き回しだ?」
記憶にあるよりも幾分か白くなった髪を掻いた。オルベリクは彼が武器を打っている間に出していた四つ結びにした布を胸の前に出す。
「武器を、買いたいんです」
笑みを浮かべていた口髭が心持ちきつく締まる。
「ほう、その剣を変えるか?」
「いえ、剣はこのまま」剣は、あの頃から変えていない。いずれ使えなくなる日まで共にあると決めている。「欲しいのは槍です」
「……なるほど。本気でエアハルト坊主でも探しに行こうってわけか?」
無言で彼を見つめる。今自分の瞳には、物騒な光がぎらついているのだろうと感じる。戦の時に持っていたような人殺しの目付きに近いかもしれない、求めるものをひたすら追い続ける、獣の目。
「……良いだろう。積もる話は酒の席だ。一級品の槍をくれてやろう」
じゃら、と手渡した布袋は獣の鎖を彷彿とさせる音を鳴らした。
+++++
アーフェン・グリーングラスは辟易していた。
「ねぇそこのお兄さぁん、うちの酒場に寄ってかないぃ?」
「わりぃ、また今度」
これで七人目である。ああ勿体無いと心の底から思っていた。
赤い口紅をひいた女性が、艶やかな腰まで伸びる黒髪を掻き上げながら話しかけてくる。薔薇の香りと女性の美しさに釣られて思わずそのまま店へ入りそうになるが、どうにか理性を保って目を合わせないままさっさと去ることにする。後ろの方から舌打ちが聞こえたような気がして、本当に薔薇みたいに怖いやつだなと心中で毒づいた。
歓楽街を早く抜けたい。それから今日の夜の事を真剣に考えたい。
何しろ、財布の中に転がってるのはせいぜい酒二杯分くらいのお金しかないのである。何度見てもそんな非情な事実が変わるはずもなく、アーフェンは街の中をとぼとぼ歩くしかなかった。
せっかくの砂漠の歓楽街サンシェイドに来たのだから街で一番盛り上がっている酒場に行こうと思ったのだが、これっぽっちの金では長居出来そうにない。というかそれ以前に宿どうしようという虚しさが募っている段階である。砂漠の夜はひどく冷えるというから屋根くらいはほしかったのだが、酒二杯分の金で泊まれる宿など聞いたことが無い。
このままだと医者の不養生で明日には風邪でも引いてぶっ倒れている可能性だってある。黄濁した景色の中で埋もれて死にたくはない。せめて死ぬなら故郷の家か、草原の中で息絶えたいなあと思ってしまう。
気付けば空の色は燃えるような橙色から冷めた青灰色に少しずつ塗り替えられてきていた。これからの時間が本番だという店はトーチに薪を投げ入れ、一つまた一つと地上に星を落とし、日用品を売っているようなお店は商品を畳んで姿を消し始めている。避けながら歩く必要のあったごみごみとした人は蜃気楼のように失せてしまっていて、実は砂漠の中に生きている町なんていなかったのではという奇妙な幻覚を見ている気分にもなるが、建物の中から聞こえてくる喧騒が夢ではないことを伝えてくれる。
一面に砂漠が広がるサンランド地方、その入口の町サンシェイド。歓楽街として特に酒の席で見られるという踊子の舞に、胸を高鳴らせる者も多いという。
アーフェンもそのうちの一人のつもりだったのだ。この道中で砂漠に生えると言われる薬の材料を採って費用の足しにしようかとも思ったのに、何故かこれっぽっちも見当たらなかった。
見当たらないといえば少し語弊がある。文字通り根こそぎ誰かに取られていたのだ。葉っぱが必要な植物ならばわざわざ根を採る必要は無いはずなので、その価値を知らない者がやったのだろうとアーフェンは考えた。諦めて牙や皮が使えるような蛇や蜥蜴等に切り替えて探しては見たが、こちらも何故かこれっぽっちも出会えなかった。
なんとか辛うじて宿くらいにはありつけると気分を上げたのだが、先程の少女に渡したお金で寂しい財布もただの袋へと退化してしまった。
非常食を街の中で口にするのもそれはそれで侘しいなと、美味しい匂いが漂い始めたメインストリートを恨みがましく抜けた時だった。
子供の泣き声が聞こえた。
「ママ、ネリがぁ! ネリが死んじゃうよぉ!」
「まあどうしましょうどうしましょう」
メインストリートの出入口の十字路に目を向けると、どうやら少女とその母親の間に白い誰かを囲っていた。会話の内容から病人かと慌てて駆け寄るが、中型の犬だと理解したのはアーフェンが彼女らに声をかけた時だった。
「あなたは……?」
ヒジャブを被り黒いサリーを羽織った女性が振り返る。子供がいるとは思えない、それどころか先程子供がママと呼んでいなければ姉かと疑ってしまう程の美人だった。思わず見惚れて二の句を告げるのを忘れてしまいかけ、アーフェンは大きく咳払いした。
「アーフェンってんだ。薬師をしてる。ちょっとその犬を診せてもらっていいか?」
母親の警戒心は薬師という言葉を聞いて和らいだ。頷くと子供を犬から引き離してくれた。人以外は専門外だが、通じるところもあるはずだ。
「よしよし、痛かったろ」
身体をゆっくりさすりながら瞳や口の中を見ていく。舌は正常な色をしているが興奮しているのか息が少し荒い。更に奥を見ると何やら糸くずのような塊が見えた。喉に詰まって呼吸が苦しいようだ。
「奥さん、支えてもらって良いですかい?」
犬の前足から上半身を親子に支えてもらい肩甲骨に当たる部分を数回叩く。すると小さな咳と共に、絡まった糸がぽろりと吐き出された。
もう一回撫でようとすると犬がぶるると身体を震わせてアーフェンから離れて子供の元へとそそくさと駆け寄っていく。人見知りなのか、アーフェンの事を暴力をはたらいた敵だと思われたのかは判らないが、寂しい反応に肩を竦める。
「ネリ! 良かった!」
少女が地面を蹴ってぴょんぴょんと跳ねると、合わせて犬も四肢をめいいっぱいに伸ばしてぴょんぴょんと跳ねて、多分だが喜びを表現しているようだった。
母親がその様子を見て、口元を押さえながら感嘆の声をあげた。くりりと丸い瞳は子供とそっくりだ。
「まあ……ありがとうございます。その、少ないですが」
と懐から取り出されたのはお金、なのだがそこまでは想定出来た。だが、その額はアーフェンの財布の中身の何十倍もある。下手したら百倍まで行くかもしれない。
信じられない札束の厚さにアーフェンは目を白黒させた。本当に文字通り視界がちかちかしたのだ。なにかあのお金から変な光線が出て攻撃してきていると言われても信じる。
「お、おいおいおい。こんなにもらえねえよ。薬を出したわけでもねえし!」
「こんなに……ですか? ほんのお気持ちなのですが……」
心底困ったように眉をハの字にする女性。恐らく自分も同じような表情をしているに違いない。その額は今まで一回の診療で貰ったことのある額を遥かに超えている。おいそれとはいありがとうと受け取れるわけがない。多分そんなことをしたら呪われる。誰にかはぱっと言われても判らないが、とりあえず浮かんだその顔は故郷に住む友の顔をしていた。
絶対にこんなもの受け取れるわけがない。鋼鉄の意志で誓っていると「お願いします。受け取っていただかないとネリのご先祖に申し訳が立ちません!」と大きな目をうるうると輝かせて迫られる。本気で犬のご両親や先人(先犬?)に祟られると思っているらしく、声が若干ひっくり返っている。
取って食われそうな程の距離に女性の顔が近付いてきて、身から香る花の匂いにどぎまぎしてしまい、がらがらと派手な音を立てて鋼鉄の意志が瓦解していく。
「わ、わーったわーった! ただし四分の一……えー……さ、三分の……」あまり近寄られると胸が……。「あー半分だ、半分で良い。それ以上は受け取れねぇ」
「ありがとうございますっ」
何とかこっちが多少折れる形で頷くと、女性はやっとアーフェンから離れてくれた。子供と犬に視線を落とすと「お夕飯があるから早く帰らなくちゃね」とアーフェンのことなどもう視界に映らないかのようにそそくさと去ってしまった。
二人と一匹を見送った後に所在無さげに空を仰ぐと、太陽の恩恵は地平の向こう側へ完全に潜り込んでしまっていた。メインストリートを外れると人通りはほぼ無いが、まだ客の呼び込む声は先程歩いてきた方角から聞こえてくる。
かくしてただの袋は豪華な財布へと進化を遂げた。宿と酒場で消費しても尚有り余るお金が収まっている。何ともなしに聖火神に祈り、
(せっかくだし、当初の目的通り酒場へ行くかな)
頭を掻きながら先程まで歩いてきた道へ折り返した。
「でっけぇ……」
というのが第一印象である。故郷のリブルタイドの住民が手を繋いで囲っても足らないのではないだろうかと思ってしまう大きさだった。一方で出入口は質素に作られていて、万人を拒絶せずに招き入れてくれる魅力があった。見張りが二人立っているが、こちらを見るなり手招きをしてくれた。
シェヘラザード酒場。酒場と言われるが、酒以上に注目を浴びているのは舞台を照らす妖艶な踊り子だと言われている。その躍りに魅了された者が、或いは憧れた者が街に移住を決めたという話もよく聞く。
消沈していた気持ちが酒場を眺めているうちにふつふつと煮えてくる。何しろ今日は一日砂漠の中を彷徨ってきたのだ。これといった収穫も無く危うく夕餉無し宿無しになるところだった身としては、精神的な癒しを求めたいものである。
もうこの街に来ている者が一次会を決め終えているような時間だったにも関わらず、幸運にも席は空いていた。丁度予約を入れていたらしい男性がキャンセルに来ていて、そのおこぼれに授かることが出来たのだ。
席の番号を聞き人とすれ違えるぎりぎりの通路を何歩か歩くと、すり鉢状のホールが広がっていた。灯りはそれぞれの机の上と壁際に置かれたランタンのみ。一人用の丸机から複数人が盛り上がるようなテーブルまで多様に並んでおり、客は思い思いの時を過ごしている。中には三人掛けのチェアの真ん中に居座った男性が左右に艶やかな女性を座らせて、赤い頬を染めている席もあった。
そしてどの席からでも、奥にある巨大な舞台を見渡す事が出来た。現在はカーテンで舞台上は見えない。舞台に向かって一定の間隔で下り階段が設けられ、距離がある者でも舞台が見えるような工夫がされている。アーフェンの席は可もなく不可も無くな酒場の中央辺りだ。
席に座るなりアーフェンはまずエールとグロス豆を注文した。酒場の一杯目は必ずきんきんに冷えたエールをぐいっと飲んで舌に苦い刺激を感じながら、そのつまみには塩で甘く茹でられたグロス豆を一緒に口にすると決めている。そう時間も経たずにジョッキになみなみに注がれたエールと小皿に枝付きのグロス豆が艶やかな女性によって運ばれた。
乾杯する相手ももちろんいないので、さっき受け取った大金で酒を飲んでいる詫びに、故郷で今も薬師として勉強しているであろう親友の顔を思い浮かべてジョッキをぶつけるふりをして煽った。冷えきったエールが口を、喉を通り抜けて身体に染み渡る。旅の疲れがそれだけで三割ほど吹き飛んだように感じた。自分は思っている以上にかなり単純なのかもしれない。単純じゃないことの方が世の中は多いのだから、自分くらいは正直に生きていたいなあなどと清々しく思うわけである。
しかし、この街を歩いていると違和感というものが強く纏わりついた。財布を盗んでいった少女は着の身着のままのような格好で肌色も良いとは言えなかった。お金を盗まないといけない程に生活が困窮している。一方で犬を連れていた親子は、お金の感覚が一般人とかけ離れている程に何かに困った様子はない。アーフェンにはあまり詳しくは解らないが、身に付けていた衣服が何日分の食料に相当するのか考えるだに恐ろしい。
このちぐはぐな光景には眩暈を覚える。アーフェンの育ったリブルタイドは誰も生活が困るような事の無い穏やかな村だ。誰が誰を好き嫌いだとか今日の夕飯がどうだとか全て筒抜けになってしまうようなプライバシーの欠片もない所だが、良く言えば垣根というものが存在しない場所であり、アーフェンにとってはとても居心地の良い所でもある。
街が大きいと色んな人種がいるのは理解できる。だがここまで人と人との間に壁があるものなのだろうか。
それともう一つ引っ掛かっている言葉があった。
財布を盗んだ少女が言っていた『悪いお医者さん』。その言葉が何を意味するのかは判らないが、異物のように喉元に引っ掛かる気味の悪さがあった。人を助けるための医者に、薬師に、良いも悪いもあるものか。
この街は華やかな見た目と裏腹に、見えない何か歪なシステムがあるのだ。その現実がアーフェンにはとても歯痒かった。
二杯目のエール、ポテトフライとソーセージの組み合わせがテーブルに届くとほぼ同時にちりりんと鐘の音が酒場いっぱいに響いた。喧々としていた酒場が徐々に静かになり、皆が首を同じ方向に向けている。
アーフェンも釣られて視線を送ると、酒場に入ってきた時はカーテンで遮られていた舞台が姿を見せていた。
フェイスベールで顔を隠した女性二人が構え、舞台前方の蝋燭に照らされてより嬌艶に映る。まるで地獄か天国かの門のように芸術的だった。その後ろには複数人の男性が見たことのない衣装で見たことのない物を抱えている。女性ほど露出は多くないが、引き締まった二の腕を晒している。
直方体の椅子に座った男性がリズミカルに椅子を叩き始めた。それはどうやら椅子ではなく楽器のようで、両手と足を使って曲の基礎を組み上げていく。呼応して他の男性も手元の楽器を鳴らす。卵型の葉に葉柄をつけたような弦を弾く楽器。昔、大道芸の一団が村に来た時に少しだけ楽器を触ったことがあるが奇天烈な音しか出せなかったり、音楽と言えば母が歌ってくれた子守唄くらいしか知らないアーフェンにはこれっぽっちも縁が無いものではあったが、ステージで巻き起こる音楽の渦には自然と身体が揺れる。舞台の上で構えていた女性たちも踊り出し、ショーは始まる。
メロディは乾いた音色からしっとりとしたものに変わると、舞台の上手から一人の踊子が駆け出してきた。つむじの上でバレットで留めた栗毛色の髪の毛と酒場内の興奮が、彼女の後を追っていく。元々舞台にいた踊子は彼女に席を譲るように後方に回り控えめな所作で踊っている。
舞台の中心で踊る栗毛色の髪の女性が主役らしい。露わになっている手足は筋肉質で艶めかしく、手にしている深紅のベールを右に左にとはためかせる。野原を駆ける野うさぎのように縦横無尽に舞う。この地方には存在しないはずの爽やかな薫風が肌を撫でるような錯覚を覚える。
何より彼女の表情が印象的だった。晴れやかに、得意気に。なにものにも縛らない、気ままな猫のようなペリドットの瞳は、眩しい笑顔を浮かべていた。
(へえ……すごいな)
歓楽街サンシェイドは砂漠の広がるサンランド地方の街である。植物もほとんど育たない、寒暖の差も激しい住みにくい土地でありながら、近年は移住する人が増えているという。
その理由の一つ、踊子に魅了されたからというものはアーフェンには解る気がした。
大声援の中で踊子の舞台は幕を閉じた。周囲に倣ってアーフェンも声をあげて拍手を送る。良かったぜ、ブラボー。その声がカーテンの向こうまで聞こえているかは解らないが、会場の歓声が最後の数人になるまで拍手をし続けた。やがてまた酒場一帯はテーブルの上で笑い話や飛び交う場へと変貌する。
半分程になってしまった二杯目のエールを、ちまちまと時間をかけて喉に流し込んで堪能する。お金があるのは解っていながらも身に付いた習慣で動いてしまう自分の身体が憎い。二杯目を頼むときに一緒に頼んでいたポテトフライとソーセージの皿もゆっくりつまんでいたが底が見えてしまっている。
もう一杯頼みつつメイン頼むか、と辺りを見回して給事を探す。舞台も終わりいよいよ本格的に加熱してきた酒場では自分と同じように注文を頼む者も多く、せっかく目の前を通ってもその両手がジョッキで塞がれて少々お待ちくださーいと愛想良く言ったきりまるで来る気配がなかった。そんなやり取りをもう三度もしている。
悲しいことにお待ちくださいと言われても辛抱強く待てない性格なので、仕切り直して四人目に声を掛けようと周囲を見渡した。
すると一人の女性が外套を羽織って、まさしく風を感じる勢いで駆け寄ってくる。化粧や外套から覗く服装からしてこの酒場の者なのだろうか、と呑気に考えている間に彼女は通り過ぎていった。
同時にカシャンと金属の音が耳に届く。足元を見るとそれは前腕程の長さの鞘だった。舞踏で使う物なのだろうか、鞘はシンプルだが柄は薔薇の装飾が握るのに邪魔にならない程度に施されている。
「……あ、おい!」
思わず繊細な意匠をまじまじと見てしまったが、これは間違いなく先程走り去っていった彼女の物だ。我に返って呼び掛けようとした時には、その背中はホールの出入口に消えようとしていた。
この店の人間ではないのかと一瞬でもそんな疑問を抱いたが、すぐにその問いは脳内で否定される。あのつむじでバレットで留めた栗毛色の髪の毛、程よく筋肉のついた身体……彼女はつい先程まで舞台を支配していた女性だった。
「すいません、お待たせしました」
両手を塞いでいたジョッキを置いてきて慌てて戻ってきてくれたらしい金髪の女性が肩を上下させながら要件を聞いてくる。さっきまでならまずエールの続きを頼もうと思っていたが、手にした短剣をこのまま無関係の人間が持ってるわけにはいかない。
「悪い、これあんたの同業者が落としたみたいなんだ」
「どういった方ですか? 私から渡しておきます」
「あのさっきの舞台で中央で踊ってた……」
「……」
分厚い化粧の笑顔からぴきっとひびの割れた音が聞こえた気がした。いくら鈍感な自分でも確実に彼女の琴線に触れたらしいということは解った。「自分で渡してくださいねー」と笑顔の裏に全く隠せてもいない怒りを滲ませて去っていく女性の背中を何秒か見送ってから、アーフェンは急いで立ち上がって上着を羽織る。飲食分とチップを机の上に置き、鞄を肩に引っ掛けて走り出す。
走るのに鞘に付いていた紐は邪魔だからと手のひらにぐるぐると巻きながら走っていたので、出入口付近に向かっている人物がもう一人いることに衝突するまで気付かなかった。
「とと、わりぃ!」
「ん? お前は」
「あれ? あんたさっき会った」
自分よりも身長が高く、サーコートを着た一回り年齢が上だろう傭兵の男だった。太陽に焼けた肌は黒く、酒場の鈍い明かりに精悍な顔の左半分が照らされている。その腰には消えない傷がいくつも刻まれた長剣の鞘が、背中には逆に一切傷のない槍が差してあった。
「すまん、思い出話は後だ。見失うとまずい」
もう既に見失い掛けているので焦りは骨頂である。そんなアーフェンを差し置いて男性は顔色を変えずに問う。
「誰かに用があるのか?」
「ああ、さっき走っていった踊子の落し物があってな」
「……俺も用がある。なんなら俺が渡しておこう」
と何故かそんなことをおっしゃる。実は親子だったりとか……いやそこまでの娘のいる男性には見えない。年齢は一回り程。十二神の星座を一周するくらいの差であるのは違いない。
「いや、踊り良かったぜって直接言ってやりてぇんだ」
彼があの踊子の何なのかは判らないが、アーフェンも少し意地になって、短剣の紐が何重にも巻かれた手を力強く握り締める。
それを見てか気にせずか、傭兵は顎に手を当てて思案を始めた。しかしそれも一瞬の事で、
「……なるほどな。薬師、お前の腕を借りたい。金はある」何の事だと訊く前に彼は言った。それもドスの効いた声で。「そして一つ、これだけは守ってほしい。俺が斬った奴の治療は良いと言うまで絶対するな」
「……そいつは」
予想だにしていなかった言葉に絶句する。万人を治癒し、助ける。心の中で塑像してきたその志を崩すことなんて考えたことも無い。
「守らなければお前は連れていけない。短剣は必ず俺が届けるから、任せてもらっていい」
理解が出来ないと言えば嘘になる。恐らく、先程の踊子の女性は何らかの殺傷に関わる事件に絡んでいて、もし何かが起こっても一部は薬師として見て見ぬ振りをしろと言われている。
それだけでは自分は決して首を縦に振らなかっただろう。リブルタイドを出た時に万人を自分の薬で救うと誓ったばかりであるのに、今言われているのはそんな事をしたらお前の命は保証できないという警告であった。手が震えている。自分の根底にある誓いが必死に抵抗をしている。理念に反してまで動ける程器用な人間ではないことは自分がよく知っている。
だがもし引き返した場合、傷付いてしまうかもしれない彼女を一体誰が癒すのだろうか。一介の踊り子が危険な目に遭っているのなら、目の前の傭兵と力を合わせれば助けられるのではないだろうか。
そう思い直しアーフェンが頷こうとしたが、それよりも前に男は更に言葉を続けた。
「夕方に聞かされた悪い医者という言葉、繋がっている可能性がある。もし気になるのなら付いてこい」
夕方に会った子供が言っていた言葉だ。聞いてからずっと気持ち悪く感じていた言葉。
きっと自分の性分からして、身を翻してそれも無かったことにする方が後悔するんだろうと思った。
「……解った」
傭兵は顔色を変えずに頷いた。
+++++
「そういやお前さん笑い上戸持ちだったよな」
などと言いつつ目の前の自分の親程に年齢の違う男性はエールの髭による悪魔の笑いを張り付けて、オルベリクのジョッキに並々とエールを注いでいた。「ああ、零れますって」と言いかけてる間に木製のジョッキの許容量を越えたエールが縁から描き出される筋を辿りテーブルにまで到達する。勿体無いと胸中で呟くが後の祭りである。
「もう酔ってるんですか?」
「馬鹿言え。俺が奢ってやるんだから景気良くお前ももっと飲めってことだよ!」
「奢るって言っても、それはさっき俺が槍を買ったお金でしょう」
テーブルに立てかけた槍を横目で見ながら苦笑する。
ここはシェヘラザード酒場と呼ばれる歓楽街一の大衆酒場であった。夜に入ったばかりだというのに、既に方々から理性を失いかけたような捲し立てる声が聞こえる。目の前にいる人物が仲間入りされると大変困る。単純に力比べで負けるだろうし、何よりお互いの性格上、自分に彼を押さえられる気がしない。
「お身体に気を付けてもらわないといけない歳ですし……そんなに飲んで良いのですか」
そんなオルベリクの心配を余所に、センジは豪快に笑った。
「上等だ。これでも最近は減らしてんだ。モクももう吸ってねぇ」
「意外ですね。あれだけ吸われていたのに」
「歳取ると旨さが解らなくなっちまってな、おかげで癒しと言えば街にいる子供らをからかう時くらいよ」
そういえばオルベリクが子供だった時、あの大きな手でよく頭を叩かれていたので背が大きくならないんじゃないかと泣いたということがあった。
なんとも苦い思い出を苦い顔をして思い出していると、センジも口を引き締める。
「この街は何でも受け入れる故に、善人も悪人も集まる。勝者も敗者もごった煮だ。可哀想なのは親を選べない子供らさ。最近はそういう奴がますます増えて、とても治安が良いとは言えねえ」
確かに、と夕方に出会った少女が浮かんだ。彼女の肌に傷は無かったが、盗みを働かないと家族が飢え死にしてしまう程に困窮している家庭であることは、親が選べない子供の一人と言っても良いかもしれない。父を悪く言うなと言っていたのでその人物を責めるつもりはないが、この街が同じような人間を多く生み出しているのは間違いない。
センジは声のトーンを下げて話を続ける。
「あまり大きな声は言えんがな、ここの酒場の支配人がこの街を牛耳ってる一人だな。物も、人の流れもだ。傘下に下れば富と踊子が手に入るとは的を得てる。あの踊子達だって身寄りがねえのを引き取って育ててんだ。もし開花しなければまたぽいされる身よ。ここはいつでも戦場なのさ」
いらっしゃいませぇ、隣を歩いていた桃色の踊子服の女性が身に付けたアクセサリーを鳴らしながら通り過ぎていく。喧騒に消えて聞こえはしないと思うが、センジは彼女の後姿が小さくなってから口を開いた。
「それを知ってからはここには来なかったんだが、まあせっかくお客様が来たからには街一番の踊りを見せてやりたかったわけだ」
なるほど、なんとなくこの街がどういった街なのか全貌が解ってきた。
サンランド地方の歓楽街サンシェイド。メインストリートの露天商が店を広げる巨大な市場とあちこちに存在する大衆酒場で昼も夜も眠らない街である。一方で貧富の差が激しく、治安も良いとは言えない。
そして、金の流れの一部を握っているのはこの街一番の酒場の支配人であるという。センジの物言いを聞く限りは良い人物ではないだろう。物や人を牛耳る……では先程の人の財布を盗んだ少女が食べる物は? 傷を癒す薬は? 他人に不干渉なこの街で手助けとは愚かな事であり、貧しい者を救う事はしない。あまり気持ちの良い話ではない。
「……などと言って、センジ殿が踊りを見たかっただけでは?」
「がっはっは! そうだな、最近見てなかったからなぁ!」
何となくそんなことだろうとは思っていた。ある意味彼が変わっていないので安心してしまったが。
センジはひとしきり笑った後に、改めて肘をついて話しかけてくる。
「俺よかお前の事を教えろよ。最近どうしてたんだ」
「最近はコブルストンの方にいて……」
「コブルストンってーと、えーっと……あー、ハイランドの外れの田舎か」
「ええ、そこに住んでいる子に剣を教えていました」
あの長閑な村の日々を思い出す。太陽が昇ってから身体を動かし、太陽が沈んでから寝る穏やかな時間を。
「ほう、その心は?」
「流れて暮らすうちに、たまたまですよ」
「本当か? 他に何か考えていることは無かったか?」
質問の意図を理解しかねる。
「それって」
どういう意味なのか。言葉は突然の鐘の音にかき消される。各々好き勝手に騒いでいた声が消えていく。
「おっと、始まるぜ」
センジが指を差したのは酒場の最奥に設置された舞台だった。先程までは重たい色のカーテンが覆っていたが、袖に追いやられて中身を露わにしている。
灯りは舞台の目前に数個置かれているだけなので舞台の奥の方はかなり暗いが、サンランド地方の装束に身を包んだ数人の男性が各々の楽器を構えている。舞台の前方には左右に二人の踊子が一つの銅像のように微動だにせずに立っている。
周囲の話し声が少しずつ消えていく。全員がこの酒場の目玉を今か今かと待っていた。
唐突に響くのは打楽器の音だった。直方体の木箱を叩き、そして続いて鈴や弦が身を震わせた。それはそれぞれの楽器の音が絡み合い一つの音楽になる。音楽といえばホルンブルグで凱旋をする時や壮行式の時に華やかな金管楽器の音を聴いていたが、それとは全く毛色の違う音楽だ。目を瞑れば燦々と照りつける太陽と砂の海が浮かぶ、そんな乾いた音楽。
やがて別の楽器にメロディが移り、上手から一人の踊り子が現れた。コインベルトが乾いた音楽を飾り、唐紅のベールが舞台を華やかにする。一房に纏められた栗毛色の髪が重力を無視して肉食動物の尻尾のようにたなびく。
「……彼女は?」
「お、もしかして惚れたか?」
「違います」
「おや残念。彼女はここの看板踊子のプリムロゼってんだぜ」
看板踊子……なるほど。左右の女性の踊りも綺麗ではあるが何処かぎこちなく、二度見ることがあれば粗を気にしてしまうかもしれない不安さがある。
しかし、中央の女性、プリムロゼは人を強く惹き付けるものがあった。猫のようにしなやかな四肢を動かし翻弄する。僅かな明かりでも輝くペリドットのような瞳は小悪魔のような笑みを浮かべ、見る者を魅了する。一言で言えば蠱惑的な女性だった。少なくともこの場にいる九割の人間はその足取りを追いかけて虜にされているだろう。
だが。
(――何処かで見たことがある気がする)
オルベリクは言い知れぬ深憂と既視感を感じていた。酒場の踊子と知り合った覚えは無い。遠い昔だとしても十ほど離れた娘と知り合う機会など多くは無い。
穴が開くほど見ても既視感の答えが出ることは無かったが、改めて感じたのは彼女の動作は見えない綱を自分で敷いてその上を渡っているように見えたことだった。他の踊り子も後ろの楽器演奏者達ももっと安全なところで舞台をしているのに、彼女一人だけが細い綱の上でステップを踏み、自らを追い込んでいるような……それ程に、彼女は繊細に、そして堂々として見えた。そのアンバランスなところが魅力として見えているのか。そんな雰囲気の少女に会っていたのだとしたら記憶に強く残っているはずなのだが。
「彼女も拾われ子でな、支配人に気に入られて看板娘に上り詰めたやり手だ。彼女はいつも遠くの夜空を見て舞っている……とはここにきた詩人が残した言葉だが、実際に何を見ているんだろうな」
……一瞬、彼女と目が合った。いや、この広い酒場のことだ、合った気がしただけだと、そう思う。だがその視線は明確に怒気……いや、遥かにその感情を飛び越えて戦場でよく感じていた気配を――そう、殺気を感じた。優雅に舞う猫のような女は、獲物を狙う時の豹のような一瞥を送ってきた。自分になのか、センジになのか、それともこの酒場にいる誰かなのかは明白ではないが、酒で温まりかけていた身体が急激に冷えていく。
頭の中の引き出しを全てひっくり返してもついぞ少女の面影を見つけることは出来なかった。その印象的な気配、ペリドットの瞳を一度見れば忘れるはずがないのに。
後になって思えば、自分は少女だけにばかり気を取られていた。隣のテーブルで一人軽い酒を飲んでいた男の左腕にカラスを象った入れ墨が彫られていたことに気付いたのは、後にその男に再会してからのことだった。
「何度見てもここの酒場の踊りは最高の酒のつまみよなぁ!」
大きな口を開いて初老の男性が笑う。一方でオルベリクは解の出ない疑問の楔が、喉に刺さって抜けずにいた。
「おいおい、どうしたシケた顔してよ。サンシェイドの目玉はお気に召さなかったか?」
「いえ、確かに素晴らしいものでした。センジ殿がこの街に流れた理由がよく解ります」
「お前、俺がすけべえだって言うのか?」
「違うんですか?」
「まあ違わねえけどな」
何とも気の抜けた会話をしながら、まだ七割程残っているエールを喉に流す。周囲は自分達と同じように舞台の感想を言い合ったり、どっという笑いが起きていたり、感極まった声が聞こえてきたりと酒の回った連中が暴走し始めていた。ビキニにハーレムパンツといった衣装の女性達もあちらこちらで注文を頼まれて忙しくホールを走り回っている。
一しきりのセンジと舞台や直近の出来事の会話をして、エールのジョッキが空いてしまったので周囲を見回す。
一人の女性のその姿を見たのは、丁度その時だった。地味な色の外套を羽織ってはいるが、フードはそんな彼女の勢いに付いていけずに後ろでたなびいている。
見間違うはずもない、舞台の中央でこの場の皆を釘付けにしていた踊子プリムロゼである。ペリドットの瞳にあの舞台の上で一瞬だけ見せた剣呑な光を携えて、前だけを見て走っている。周りを見向きもせずに、危うい綱の上を渡っているあの危なげな瞳。
――ああ、そうか。
これは八年前の記憶。
自国の王を討った昔の相棒に、その瞳は似ているのだ。
あの時の彼が何を考えていたかは解らない。何度足りない頭を働かせても解る事なんて何もなくて、そうして八年が過ぎていった。
そんな自分が同じ瞳を持つ彼女に対し行うことなど、同じく答えは無い。だが、きっと今行動しないと後悔する。
気付けば立ち上がり、立て掛けた鞘を掴んでいた。
「行くのか?」
「センジ殿」
肩肘をテーブルに乗せ、ジョッキの縁を弾きながら低い声で彼は問いかける。
「さっき、お前村の子供に剣を教えてたって言ったよな」
「ええ」
「人を斬ってきた事は言ってねえな」
「当たり前です」
少しの沈黙があった。
「よし。また元気な顔を見せろよ、ここの踊子とな。お前は俺の大事な息子みたいなもんだからよ」
「……はい」
彼は言いたかったのだ。人を斬る者はなるべく少ない方が良いと。戦士は時に国のために戦場を走る事がある。人の骨肉を斬り命を断つ行為は戦場で重ねれば英雄となるが、日常ではただの殺人だ。
武器を手掛ける彼が言うのはおかしな話かもしれない。だがオルベリクにはその気持ちが痛い程伝わった。
その線引きを、ゆめゆめ忘れるなと。彼はそう言いたかったのだ。
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HN:ヴィオHP:性別:非公開自己紹介:・色々なジャンルのゲームを触る自称ゲーマー
・どんなゲームでも大体腕前は中の下~上の下辺りに生息
・小説(ゲームの二次創作)書いたり、ゲーム内の台詞まとめたり
【所持ゲーム機】
・SFC GC(GBAプレイ可) Wii WiiU NSw NSwlite PS2 PS3 PS4 PS5
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・PCは十万円くらい。ゲーム可だがほぼやってない
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